幕末の偉人 勝海舟・吉田松陰、そして坂本龍馬を育てたひとりのうちの佐久間象山ってどんな人物なの?
こんな疑問にお答えします。
佐久間象山とその弟子、勝海舟・吉田松陰そして坂本龍馬は語れない!隠れ幕末偉人
江戸時代後期の松代藩の武士として生まれた佐久間象山。誰でも知っている偉人ではないですが、勝海舟や坂本龍馬にも影響を与えたと言われている佐久間象山。
しかし、実際は学校の教科書で出てくるあの有名人達とも深く関わっていたとても有能な人物です。
今回の記事は、勝海舟・吉田松陰、かつ坂本龍馬を育てた佐久間象山とはどのような人物だったのかを紹介します。
佐久間象山のエピソード
佐久間象山(吉川弘文館) #読了
象山の信念が強く感じられ感動した!朱子学を思考の軸として生涯失わず、その上で洋学や兵学を摂取するという柔軟性とブレなさの両面が面白かった!「東洋道徳」と「西洋芸術」は別ものだと思ってたけど、理を窮めるという意味で連続するものなんだな!勉強になった! pic.twitter.com/nRUgdTM9Yi— まさ (@BWIDJDUeULmC8f6) July 5, 2022
佐久間象山は、西洋式大砲の建造の成功をはじめ、ガラスの製造、葡萄酒の醸造、火薬の製作など幅広い分野を研究し、成果を出します。
同時期には、薩摩藩もガラス製造に取り組んで現在では有名な薩摩切子(ガラス細工)がありますが、どちらも幕末に取り入れられた技術です。
注目すべき点として、薩摩藩の場合は組織で取り組んだとことに対し、佐久間象山は、ほぼ一人で実行した違いがあります。
また、兵学者として象山塾を開き、門下生として吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬など歴史の教科書にも佐久間象山よりも知名度が高い人物達が弟子入りしています。
まずは、佐久間象山が生きていた時代を簡単に説明します。
佐久間象山の時代背景
【妙心寺大法院】
佐久間象山先生墓
(墓碑は「象山佐久間先生」) https://t.co/TSOTUAxXeL— 都の寺の鐘bot (@teranokanebot) June 30, 2022
江戸時代後半の1811年に生まれた佐久間象山は、30歳くらいまでは朱子学者として活動しています。
佐久間象山の人生観を変える大きな出来事として、清国(現・中国)とイギリスが戦争するアヘン戦争が(1842年)があります。清国がイギリスに敗北したことにより、日本の国防について真剣に考えるようにより西洋技術について真剣に研究しました。
アメリカのペリーから開国を迫られたのは1853年なので、西洋文明の凄さに周囲の人よりも、10年以上早く注目しています。
外国で争いはあるけど、国内が平和な状況だった状況は、現在の日本と似ているかもしれませんね。
平和な時にいち早く、外国の脅威を察知した佐久間象山は、どのような人物だったのでしょうか。
佐久間象山のココがかっこいい、ポイントを集めてみました。
佐久間象山の的確な判断力や先見の目
行動力と同様にすごいと思う点は、当時は常識だったことを徹底的に疑ってなおかつ、対案を出し結果的には、防御の観点から見て間違っていなかったことです。
また、当時周囲の人が想定してなかったことに着目して、なおかつ少ない情報量を元にして導き出したことはとても価値があるように感じます。
幕末の志士と呼ばれる坂本龍馬や西郷隆盛も周囲と情報交換をして仲間を募り、倒幕運動をしたことは知られています。しかし、佐久間象山はほとんど周りに協力者、仲間がいない状態で、自分の考えをもち幅広い分野で業績をあげています。
性格に癖があったことで、人が集まらない難点もありましたが、孤独な環境で突き進んで行った功績は、現代に置き換えて考えても素晴らしいのでは、と私は思います。
佐久間象山も遅咲き人生
30歳までは、象山は朱子学者として江戸ではそれなりに有名な人物でした。
しかし、アヘン戦争を機に国防について真剣に考え西洋技術の研究を始めます。海外技術をものにするため、当時国交のあったオランダの書物を読むため、オランダの勉強を始めます。
自分の名を広めたい気持ちもあったかもしれませんが、決めたことに全力で力をそそぎ込みオランダ語を約八ヶ月で習得したと言われています。(習得のレベルはどこまでかはわかりませんが、技術を再現できるレベルに達したのでしょう)
現代でも、学校教育で中学、高校で英語を6年学んでも実践として使うのは難しいのに、情報量が少ない160年前に八ヶ月で言語を習得したのはすごいですね。
佐久間象山は惜しみなく伝える
自分で学んだ知識を、出し惜しみすることなく周囲に伝えたエピソードがいくつも残されています。
当時、江川太郎左衛門に西洋式の大砲について弟子入りしていますが、なかなか教えてくれないことに不満を唱えています。象山が不満を覚えた理由として、数年通わないと技術を教えないことはおかしいと主張します。
今でも技術をオープンにすべきかクローズにすべきか考えられることがありますが、象山は、技術を積極的にオープンにしています。技術をオープンにすることは、日本がよくなると考えたからです。
企業をベースに考えるか、国をベースに考えるかで技術をオープンにすべきか難しい判断ですが、当時からすると画期的な考え方と私は思います。
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佐久間象山は信念を曲げない
当然かもしれませんが、新しい考えに周囲はついてこれず佐久間象山は、変わった人物と評されています。
エピソードとして、こんな話しがあります。
あるとき、西洋式大砲の試作を藩から依頼されて実験をした時の話しです。最初は成功しましたが、最後の方で大砲が誤爆して負傷者が出てしまいました。その時に依頼した役人は、「あなたにせっかくお金を払ったのに無駄になってしまった」と嫌みを言われてしまいます。
すると、象山は
「何を言われる、何事にも失敗はつきものだ。むしろ、日本で初めて新しいことを挑戦していることに敬意を示してほしい」
と反論しています。
象山は、自分のしていることは、日本のため、と自負心があったからこそ心から思っていたから言える言葉かもしれませんね。合理的で物事を冷静に見極められる頭脳がある一方、日本人特有の根回しや気遣いと行った配慮には無駄を感じていたエピソードですね。
私がおすすめする佐久間象山に関する書籍です。
大転換期を迎えんとするいま、氏が魂を込めて描いたのは佐久間象山。
西郷隆盛や吉田松陰、勝海舟など幕末の志士がこぞって師と仰いだ「明治新国家の構想係」です。 産業革命や近代科学技術の権威であり、指導者であった象山は、日本初となる大砲やガラス製品の開発に成功。
佐久間象山の名言
佐久間象山は次のように語っています。
夷の術を以て夷を制す-佐久間象山-
「夷」とは、西洋人のことを意味します。
当時、幕府のすることに対しては、反対することがありえない時代でした。
反対意見を出すことを厭わず、黒船が来る前からヨーロッパの技術は優れている、日本は遅れている、やばい、といち早く気づき佐久間象山は、幕府に提言します。
そして、日本が負けないためには西洋人の技術を得ることが一番、と考え結果的には、明治政府は西洋技術を積極的に取り入れていています。
すごいと思ったことは、過去にとらわれず、実践的な行動は大事かもしれませんね。
佐久間象山の評価
「象山のもったいない性格として、とても頑固者で周囲とのトラブルが絶えなかったことです。そのためか、功績の割にはあまり評価されておらず、当時の教え子だった人たちにも、象山はすごいけど、性格には難あり、と評価されています。
人柄も大事なんですね。天は二物を与えなかったのかもしれません。象山の考えとして、「アホに言ってもわかるわけねーだろ」と思っていたのかもしれませんね。
最後は、暗殺されてしまいます。しかし、幕末の思想家に大きな影響を与えた功績は、今でもとても大きいと私は思います。
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