
この記事独自の”これは欲しい”と思われる人材像を解説します。

誰もが魅せられる「坂本龍馬は誰が教育したのか?」「誰が英雄に作り上げたのか?」
こんな疑問にお答えします。
坂本龍馬の英雄伝、
その裏にいた「名もなき育ての親」
「坂本龍馬は誰に教えを受けたのか?」「英雄は独りで育つのか?」
この問いに対する答えは、幕末の重臣・**大久保一翁(おおくぼいちおう)**という人物に辿り着きます。
この記事では、坂本龍馬を歴史の表舞台に押し上げた“大久保一翁”の思想と、その影響力について詳しく解説します。
坂本龍馬を英雄にした男「大久保一翁」とは?
大久保一翁(1818〜1888)は、幕府内で数々の要職を歴任した実力者。町奉行、外国奉行、大目付、若年寄といった役職を通じて、国家の行く末を見つめ続けていました。
彼は単なる官僚ではなく、時代の先を読み、多くの志士たちからも一目置かれる存在。薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎、そして坂本龍馬も、一翁の見識に心を動かされた一人です。
彼の思想こそが、後に坂本龍馬がまとめた「船中八策」や「大政奉還」のベースとなっているのです。
大久保一翁(1818~1888)は幕末期の幕府重臣、諱は忠寛、越中守。駿府町奉行・京都町奉行・外国奉行・大目付・若年寄など幕府の要職を歴任、維新後は駿府藩中老として藩政を取り仕切った。後に新政府の官僚としても活躍し、子爵の爵位を賜った。#青天を衝け pic.twitter.com/vFMqDyCnXt
— 令和の土星人。’22@ワクチン3度接種&インフル接種完了 (@4568Ts) September 12, 2021
「黒船」が変えた運命――大久保一翁の覚醒
1853年、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀に来航。幕府に衝撃を与えたこの事件は、大久保一翁の運命を大きく動かしました。
当時38歳の彼は、「海防掛」「目付」として黒船対応の最前線に立ちます。さらに、漂流後に米国で教育を受けたジョン万次郎(中浜万次郎)から、アメリカの情報を積極的に収集。世界を見る視野を手に入れたのです。
ここから、大久保一翁は“開国と近代化”に向けたビジョンを持つようになりました。
勝海舟との出会い、そして龍馬への継承
一翁は、若き勝海舟の提言に目を留め、彼を長崎海軍伝習所に送り出します。後の龍馬にとって、勝海舟は精神的な“師”となる存在。
海舟を通じて、龍馬は大久保一翁と思想的な接点を持ち、ついには直接会い、「死力を尽くす」と誓いました。
この出会いは、坂本龍馬にとって人生の転機となりました。
やるだけのことはやって、後のことは
心の中でそっと心配しておれば良いではないか。
どうせなるようにしかならないよ。
勝海舟pic.twitter.com/MsO4BfsDCQ— 前向きな言葉 (@maemukikotoba1) June 4, 2022
「船中八策」は一翁の思想の実践だった
1867年、坂本龍馬が「船中八策」を提案した背景には、一翁の教えがありました。後藤象二郎とともにまとめられたこの構想は、やがて「大政奉還」へと繋がります。
つまり、坂本龍馬の行動力とカリスマ性に、幕臣・大久保一翁の知恵が融合したことで、日本は近代国家への一歩を踏み出せたのです。
坂本龍馬、33歳の誕生日に果てた英雄の夢
1867年10月、徳川慶喜が朝廷に政権を返上し、大政奉還が実現。そしてその1ヶ月後、龍馬は33歳の誕生日に京都で暗殺されました。
志半ばで命を落とした龍馬。しかし、彼の行動と思想は、しっかりと歴史に刻まれました。
その裏には、大久保一翁という「静かなる英雄」の存在があったのです。
おわりに
歴史に名を残す者と、それを支える者。
坂本龍馬という巨大な花を咲かせたのは、大久保一翁という、土に根を張るような存在でした。
彼の思想と人間力は、今なお学ぶべき価値があります
最後までお読みいただきまして
ありがとうございました!
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