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ルパン三世のepisodeは作家モンキーパンチの北海道からの旅立ちから

ルパン三世のepisodeは作家モンキーパンチの北海道からの旅立ちからどん底からの逆転人生
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誰もが知っている国民的ヒーロー、「ルパン三世」。
漫画をコミックに変えた、日本の漫画史上に残る傑作です。

女好きだけど、変身と盗みのテクニックは超一流。そんなルパンと生涯のライバル ・銭形警部とのバトルは、まさにエンドレス。セクシーな峰不二子、次元、五右ェ門 など、多彩な脇役も魅力的。まさに不滅の名作です。

 

そのルパン三世を生み出した「モンキーパンチ」とはどんな人物だったのか?

 

 

そんな疑問にお答えします。

そこで今回の記事は、「モンキーパンチ」がどうやってルパン三世を生み出したのかを紹介します。

 

結論:
モンキーパンチは診療所の医師と新聞販売店の上司、このふたりの言葉によって
「ルパン三世」に辿り着いた

 

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ルパン三世の作家 モンキーパンチとは

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モンキー・パンチ(本名:加藤 一彦(かとう かずひこ)、1937年5月26日 – )は、日本の漫画家、デジタルクリエーター。大手前大学教授。東京工科大学メディア学部客員教授。代表作に『ルパン三世』・『一宿一飯』など。

北海道厚岸郡浜中町出身。実家は漁師。学生時代は地元唯一の医師である道下俊一の元でレントゲンの助手などを行っており、漫画で患者を和ませていた。北海道霧多布高等学校を経て、東海大学専門学校電気科中退。

アメコミ雑誌「MAD」の影響を多大に受けて、漫画を描き始め、高校卒業後すぐに上京、「加東一彦」のペンネームで貸本専門の出版社で漫画家のアルバイトをした後、1965年に、「がむた永二」のペンネームにて『プレイボーイ入門』で本格的なデビューを果たす。ほかに「加東一彦」、「かとう・一彦」のペンネームも併せて使用していた。

2019年4月11日午後7時26分、肺炎のため逝去81歳(享年83歳)。

 

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モンキーパンチの生まれ育った北海道

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北海道の釧路から列車とバスで2時間くらいの富多布。富多布は、名前が示すとおり大平洋に面した一年中、霧の多い港町です。
ふたつの湾の間に島があって本土と繋がる付け根に、捕鯨基地を中心とする市街地がありました。

モンキーパンチが暮らしていた頃は、大きな船も出入りしていて人口も1万人ぐらいでした。
でも今かり過疎の町になって7000人ぐらいしかいないとのことです。
霧多布の町は、日本というより、北欧あたりの島々を思わせる風景。

昔はニシンが大漁でニシン御殿が建ち景気が良かったのです。
また、東北各地から移住して出身地ごとにグループができていて、遊郭もある賑やかな街でした。

現在も、霧多布は漁業と酪農が中心で、質の良いチーズや海産物で知られている地方都市である。しかし1年の半分が霧で、フトンを干そうにも、濃霧や潮風で湿ってしまう。海難事故も多い場所でした。

1937年(昭和12)年生まれのモンキーパンチは、小学校2年生の時に生まれ故郷の霧多布で終戦を迎えそのまま、地元の霧多布高校に進学します。

ところが、新入生の数がしだいに少なくなり昼間部を維持していけなくなり、1学年で5人
ぐらいしかいませんでした。そこで定時制にして社会人も学べるようにしたのです。
これでようやく20人ほどの学生が確保できたようです。

夜間部の学生になり、昼間遊ぶわけにもいかず、働かなければならない。
そこでモンキーパンチは、手に職を付けようと釧路日赤病院診療所でレントゲン検査の助手として働いたのです。

医師の言葉で上京を決心

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この時に出会ったのが、後に地元で「命の診療所」と呼ばれ、生涯を地域医療に尽くした道下俊一医師でした。

この医師との解逅が加藤の人生を変えることになりました。

 

道下医師は、医療のかたわら、1年に何回か機関紙を出して、その編集も行っていました。モンキーパンチにも何か書かないかというので、漫画でもいいですかと答えると、そりゃ、なおいいということになりました。

モンキーパンチは、子供の頃からマンガを描くことが大好きで、中学時代に手塚治虫の「鉄腕アトム」を読んで感激し、漫画家になろうと決心していました。

地元ブロック紙の北海道新聞にも何度が投稿、道下医師は、まだ高校生だった彼のマンガを見て言っ他のです。

「君ならマンガでうまくいくんじゃないか」

霧多布生まれのモンキーパンチにとっては、漫画家になることなど夢のまた夢。
それよりも何か技術を身につけるほうが先ではと道下医師に問います。
すると医師はこう言うのです、

 

「技術を身ににつけることは誰でもできる。せっかく才能があるんだから、それを伸ばすのもひとつの手だぞ」

 

この言葉で、モンキーパンチは漫画家になる決心をしたのでした。

街中に書店が一軒もない場所、マンガといえば『少年クラブ』(講談社)ぐらいでした。
それでも、北海道新聞に中学生時代から投稿していました。
そして、中学卒業の時、文集に将来、漫画家になりたいと親に相談しましが、何をふざけたことをと叱られました。まだマンガが市民権を得ていない時代です。

グラつきかけた気持ちが、医師の言葉で固まったのです。
モンキーパンチは高校を卒業後、漫画家を目指して上京することを決めます。

とはいぇ、モンキーパンチは石橋を渡る時も叩いて叩き割っちゃうほど慎重派でしたので、まず練馬の新聞販売店に住み込みで働き、そこから品川にある専門学校でテレビの撮影技術を学ぶことにしましたのです。

テレビがものすごい勢いで普及していたため、その技術を学ぶことにしたのです。
その技術を見につけておけば、食いっぱぐれはないと思ったのです。

 

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モンキーパンチの転機

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世の中というのは面白いもんですね。

勤めた新聞販売店で、早朝と夕方に配達を行い、昼間集金にも出ながら専門学校に通い、深夜、マンガを描き続けました。

そんな彼を見て新聞店の上司が声をかけます。「集金はしなくてもいいから、自分の家に上がってそこでマンガを描いていなさい」をかけてくれたのでした。

さらに新聞広告で、四谷にある貸し本マンガ専門の出版社が、新人漫画家を募集していたことも教えてくれました。
描いたマンガを持っていったら、すぐ採用されます。

国籍不明のアクション・マンガへ

人気漫画家になった後、モンキーパンチはその上司にお礼を言おうと出向いたが、すでに住居も引っ越し、連絡も取れない状態でした。

診療所の医師と新聞販売店の上司、このふたりの言葉によって、当時20歳を過ぎたばかりのモ
ンキー・パンチは、ようやくマンガを描いて生計を立てられるようになったのです。

神田の外国専門の古書店の2階に事務所があり、事務所自体もマンガの貸し本屋でした。
その外国専門の古書店の店先に積んであったのが『MAD』というアメリカのマンガ雑誌でした。

この雑誌には、後に大家となるアメリカの漫画家たちがたくさん寄稿していて、モンキーパンチはその絵がすこく新鮮に見えて、出るたびにまとめ買いしていたようです。

これが国籍不明のアクション・マンガのもとになったのです。

 

しかしモンキーパンチの漫画家人生は時に順調ばかりでもなかった。せっかく勤めた貸し本専門出版社が数年後、貸し本屋激減のあおりを受け倒産してしまいます。

それで困って、26、27歳から3年間ぐらいサラリーマンを経験しました。
最初は、芸能関係の業界誌。
レコードが出るたびに、それを紹介する雑誌で、イラストを入れるためにマンガが描く仕事しました。

次に働いたのが、虎ノ門にあった小さな商事会社。ここでは、事務員として勤めていました。

こうしたサラリーマン生活を続けながらも、モンキーパンチは漫画家の夢を捨て切れず、マンガの好きな連中と集まって同人誌を発行していたのです。

その雑誌を見てすぐ連絡をとってきたのが、2年後に創刊された「漫画アクション」の初代編集長で、後に双葉社社長となった清水文人でした。

清水はわざわざモンキー・パンチの勤務する会社に電話をし、描いたマンガを持ってくるように言いました。
次の日、会社を休んでマンガを持っていくと、清水編集長に『君のマンガには欠点がある。女
性のキャラクターがまったく描けていない』と言われました。

モンキーパンチは考え、見よう見真似でマンガを描き始め、女性の描き方なんてまったく知りませんでした。そこで、会社が終わってから、虎ノ門にあった美術研究所で、デッサンを勉強し直すことにしたのです。そこに週2回ずつ2年ぐらい通いました。

美術研究所に通いながら、66(昭和41)年に「漫画ストーリー」(双葉社)で「銀座旋風児」
を発表。

30歳間近で再修業したこの努力が、やがて「ルパン三世」に結実します。
中でも峰不二子という魅惑的なキャラクターを生み出すことになったのです。

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キュートな肢体で、ある時は女盗賊、ある時は女スパイである謎の女・峰不二子は、
主人公のルパン三世をもしのぐ人気キャラとなりました。

 

ルパン三世連載開始

 

『ルパン三世』を描き始めたのは、007映画が好きで、ルパンが、怪人二十面相のように変身して、ジェームズ・ボンドのように活躍するピカレスク(悪役)マンガをイメージしました。

ところが、編集部内では、ルブランの怪盗アルセーヌ・ルパンを思い浮かべたようで不評でした。
いまさらルパンなんて、もう少し新しい企画を考えろと言われますが、どうしてもやりたくて3カ月間だけやってみて、もしダメだったら編集部で考えた企画に変えるということになったのです。

67年「漫画アクション」創刊号の巻頭を飾って、元パン三世」がスタートしました。

ところが編集部の杞蔓に反して、スピード感が溢れ、日本人が描いたとは思えない無国籍タッチのマンガは、たちまち大評判となりました。

ペンネームの「モンキー・パンチ」も、外国人が描いたようなイメージを与えたいという編集長の意向からでした。

モンキー・パンチという名前は1年だけという約束だったが、いつの間にかその約束を忘れていて、もう37年間、描き続けていました。

ルパン三世の主役にもなれる5人のキャラクター

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「ルパン三世」のアニメ化に際しては何人もの脚本家が挑んだが、いずれもギブアップし
たといいます。

苦労して制作された「ルパン三世」のテレビアニメでしたが、原作が大人の男性を対象とするマンガだけに、最初の放映シリーズでは散々な目。最終回の視聴率でも4%いかなかったのです。
やはり、アニメは当時、子供が見るもので、まだまだ違和感があったからです。

この作品はルパンだけでなく、次元大介や石川五右ェ門、峰不二子、銭形警部たちの登場人物が重要でした。このように苦労した「ルパン三世」のアニメ化だが、不思議にも再放映を繰り返すうちに人気が高まってきたのです。

その理由はやはり、主要キャラクター5人の織り成す絶妙のアンサンブルにあります。

ルパン三世に加え、相棒でクールなガンマン次元大介(早撃ち0・3秒)。
かの大泥棒・石川五右衛門の十三代目の末裔で、斬鉄剣の使い手・石川五右ェ門。
ある時は女盗賊、ある時は女スパイで、ブローニングM1910を愛用する峰不二子。

そして、ルパンの永遠のライバルで銭形平次の子孫の銭形警部―ーと、誰もが主人公になれる5人のキャラクターをひとつの作品に持っていました。

37年間、ひとつのマンガに集中して取り組み続けた結果、登場人物のいずれもが、主役になれ
るほどの感力を持つまでに完成度を高めたのでした。

さらに、登場人物5人が互いに争いながらも、相手を認め合っているのも面白いところ。

たとえば、長くルパン三世を追い続けている銭形警部は「ルパンと金庫破り1その1」の中で
こう言います。
天才的な金庫職人が創った原爆の熱にも耐えうる「十年金庫」をルパンが見事に開ける。
それに対して怒るどころか銭型警部は、「あいつには、人のできないことに挑戦するという、
いやらしいほどガンコなヘソまがりの根性がある」と、逆に誉めてもいるのでした。

一方、何でも真っ二つにしてしまう居合抜きの達人・石川五右エ門とルパンのやりとりも何度
読み返しても面白いです。
そして、峰不二子は回を追うごとにセクシー度が増す永遠の美女キャラクターです。

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まとめ

他の漫画家とは異なり、マンガとは無縁の北海道の田舎町から上京してきた青年が、自分の才
能を信じて夢を忘れずに漫画家になった。

自分でピンチを切り開く「自力本願」の生き方は、主人公のルパン三世の明るく元気な活躍とも共通項がある。それゆえ、このマンガはいつの時代にも支持され続けているのです。

「ルパン三世」は、その後37年以上続くの出世作にして代表作となったのです。

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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