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古谷三敏の「ダメおやじ」には赤塚不二夫との関係があるんですヨ!

古谷三敏の「ダメおやじ」には赤塚不二夫との関係があるんですヨ!教育
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赤塚不二夫さんの「天才バカボン」の成功の裏には、アイディアブレーンがいた?!

 

そんな疑問にお答えします。

それが「ダメおやじ」の作者 古谷三敏さんです。

ゆず子
ゆず子

「ダメおやじ」ってどんな漫画なの?

 

この疑問についてもお答えします。

 

家族や上司にいじめられるダメおやじの悲惨な姿をを描いたブラックギャグ。『ダメおやじ』の登場は、当時の父権失墜を体現していると評されました。

 

一見派手なギャグマンガに見えますが、ダメおやじの生きる道は現在における「親父」のサクセスストーリーです。

 

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古谷三敏のプロフィール

「ダメおやじ」など漫画家の古谷三敏さん、がんで死去 85歳 - 社会写真ニュース : 日刊スポーツ

古谷三敏は、1936(昭和11)年に旧満州(現在の中国東北部)の奉天(遼寧省瀋陽市)で生まれた。
終戦と共に日本へ帰国。

55年デビュー。手塚治虫や赤塚不二夫のアシスタントを経て70年、「ダメおやじ」の連載を開始。父親が家族にいびられるギャグ漫画が人気となり、小学館漫画賞。「寄席芸人伝」など人情味とうんちくあふれる作風で長く活躍した。連載中だった「BARレモン・ハート」は85年から続いており、テレビドラマにもなった。

2021年12月8日、がんで死去、85歳。

古谷三敏は手塚治虫のアシスタントとなる

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古谷さんの人生を変えたひとつの出来事は、帰国して3年後、小学5年生の時だった。

それは手塚治虫の「新宝島」でした。
衝撃を受けた古谷さんは、寿司職人か板前にと考えていた父親を前に、漫画家になることを宣言します。

幼い時から絵が上手かった古谷さんは、帰国後絵を描くことに熱中していたのです。やがてポスター製作で県の小学生部門の2位に入賞を果たします。

それから日夜マンガを描き続け東京の出版社に持っていきました。
そのマンガが3、4冊も単行本になりました。

数冊の単行本を出版し、古谷さんは人気漫画家への道を歩み始めます。
やがて、「あしたのジョー」のちばてつやや「丸出だめ夫」の森田拳次らと交流を深めていきます。

驚いたことに、皆、旧満州の奉天生まれで、引き揚げ船の経験者だったのです。
ほとんど、歩いて行ける距離の所に生まれているのでした。

赤塚不二夫さんもそうだったのです。

彼らには共通の体験がありました。終戦のドタバタから帰国した後に、大きなカルチャーショック
を受けたのが、手塚治虫だったのです。

古谷さんは毎日、本がボロボロになるまで読みました。そして皆、同じように漫画家を目指していたのです。

当時サラリーマンの月給が3000円程度の時代に、なんとか単行本を1本描ければ3万円。

そしてついに、その手塚治虫からアシスタントとして来ないかと誘われ、手塚の初台の仕事場へ通うことになったのです。

古谷さんは身に余る幸せでした。憧れの巨匠の下で勉強できる、毎日が夢のようでした。
3年間アシスタント修業を終え、独立して自分のマンガを描こうとしていた時、今度は赤塚不二夫の仕事場から来ないかと打診があったのです。

自分のマンガを描きたいと思っていた古谷さんは、初めあまり乗り気ではなかったのですが、ところが赤塚さんに会ってみると、やさしい人で、働いても気持ち良さそうな職場だったので、「短期間でよければ」と言って引き受けました。

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赤塚不二夫のアシスタントへ

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古谷さんは赤塚不二夫の「フジオ・プロ」に所属しました。
すでに独立したプロ作家だったが、古谷さんは幹部スタッフとして赤塚さんの
「天才バカボン」のアイデアブレーンとして参加していたのです。

赤塚さんの仕事場では、4、5人がそれぞれ担当を持ってネタのアイデアを提供します。

古谷さんはボケをかますネタが得意で、バカボンのパパの役作りをやってました。
例えば、ゲタを履いた格好で現れて「ゲタのままで失礼します』とか。

赤塚さんはものすごい常識人で非常にまじめ。
だから古谷さんらの話を聞いて、『よし、それでいこう』と、突然ハジけるようなバカ騒ぎを描き始めます。

「おそ松くん』(週刊少年サンデー/小学館)の時は、冬でも裸にパンツひとつでノンビリ『ホエホエ〜』と登場するデカパンは、古谷さんがモデルです!

古谷さんが少年サンデーの連載を始めると、これまでの半分しか時間が取れなくなりました。
そこで古谷は赤塚に相談、すると、赤塚さんは、「いやぁ、いい話だからやりなさい。その作品に関しては僕が古谷さんのアシスタントになるよ」と言ってくれました。

フジオ・プロは楽しい職場でした。結局、10年以上勤めます。

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古谷三敏の「ダメおやじ」

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マンガほど、その時代をリアルに描き出すものはないのではないでしょうか?

「週刊少年サンデー」(小学館)に1970(昭和45)年から82(昭和57)年にかけて11年半連載された、古谷三敏の「ダメおやじ」も、当時、読む者に強烈なインパクトを与えた作品でした。

この頃はまだ『少年サンデー』は子供向け雑誌でした。
やがて読者が大学生になり、三十代四十代なっても読み続ける人が出てきたのです。
そこでちょっと大人っぽい作品をやってみないかというので始めたのが、『ダメおやじ』だったのです。

「ダメおやじ」の連載中も、アイデアブレーンとして、赤塚にネタを提供し、また赤塚のアイデアも得て自作を描き続けます。

古谷さんはあらがじめ作品のテーマを決めているから、キャラクターが自然に動くのでした。
ダメおやじの場合は、家庭で小突かれ、会社でも小突かれるサラリーマン。よく言うように、作家が思う以上にキャラが動きだす。そうなれば成功です。

連載開始当時、通常の連載が16ページあるのに、「ダメおやじ」は5ページ。しかも10月に始まり、正月の新年号までのつなぎ的役割でした。

しかし、いざ始めてみると、結構評判いいよ、ということになり、今年いっぱいやろうから、結局、11年半連載を続けることになったのです。

 

「ダメおやじ」人気の秘密

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人気の秘密は「ダメおやじ」こと雨野ダメ助の凄絶なまでに悲惨な境遇にありました。
例えば、ダメおやじが黄色い旗を片手に横断歩道を渡ろうとした時、途中で靴の片方が脱げて自動車にはねられます。

病院から自宅に急を知らせる電話が入っても、妻のオニババと息子のタコ坊、娘のユキ子はトランプ遊びに熱中してこれを無視。

度重なる電話に、悪魔のような形相で病院に駆けつけ、「バカ、お前がモタモタしているから、ひかれるんだ」、「いっそ死ねば、お金がガッポリ入るのに」と、トランプの代わりに包帯姿のダメおやじをからかって遊ぶのでした。

 

ダメおやじには実はモデルがいたのです。

これまで赤塚さんがないしょにしておこうと言ったので、黙っていました。
実はフジオ・プロのNという人物なのです。

古谷さんはそのモデルについて、
「フジオ・ブロで仕事のあと、皆で新宿に出てワリカンで飲むんですが、この人は”お呼ばれオジサン”と言われていて、いざお金を払うときになるとトイレに行ったり、お開きの前になるとサッと逃げてしまう。」

それで仲間が『アィツ、また逃げたよ』と言って、赤塚さんが代わりに払っていました。

職場の解判も良くなかったようです。
それをヒントに赤塚さんと会社でも家庭でも評判の悪い男の話にしようと始めたのです。

連載開始に当たって、男性や父親の権威を失墜させようとという意図はなく、あくまでギャグとして入っていきました。

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調子を出すためオニババがダメおやじを殴るシーンで、クサリガマを突き刺したり、目にカギをつけたり。なのにダメおやじは、次週も「行ってきます』とアッケラカンと玄関を出る。

実は、このマンガ、当時のファンも不思議に思っていたことがありました。
「ダメおやじ」は、長期連載の後半に作風が一変しました。

オイルショックが日本経済を直撃し、中には本当に貧乏な人も出始めた時代に、ダメおやじは家を出て、家族と離れて山に山小屋を建てて住み始めました。

ダメおやじがバードウオッチングや渓流釣り、フライフィッシングを教える山の仲間たちと出会い、しだいに心満たされていく”ウンチクマンガ”へと「ダメおやじ」を変化させていきました。

「ダメおやじ」は、大自然と触れ合いながら、さまざまな趣味を身につけ、当時まだ日本れていなかったアウトドアのコールマン・ブランドをいち早く紹介しました。

またロッキ-山脈のふもとに住むという大和じいさんと出会って、南極に行ったり、写真に凝って、アメリカの砂漠でガラガラ蛇の写真を撮ったりして、趣味の世界に没頭しました。

 

まさに、今日で言う「スローライフ」の走りです。

 

そして驚いたことに、世のため人のためにさまざまなお手伝いをする株式会社「おてつだい」
設立して、その経営者となります。ちなみに、同社の会長が大和じいさんであります。

この会社には、次々と仕事の依頼が集まり、トイレやビルの清掃など何でもこなし、やがてホテル経営も成功させて、巨万の富を築く。まるで現在の企業の社会的責任論議を先取りしていたのです。

その「ダメおやじ」の連載は11年半続き、最終回を迎えた時、古谷さんは45歳。

練馬区石神井台に「ファミリー企画」を立ち上げ、自らアシスタントを抱えていました。
「ギャグマンガを描きながらも、僕の作風は大人っぽくなる。それで『ダメおやじ』の後半は、
ウンチクを入れて変化させていったのでした。

アウトローが幸福になる現代の民話

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「ダメおやじ」は、結局少年サンデーで11年半にも及ぶ長編マンガとなりました。

物語の最初と最後でこれだけ遠うマンガは珍しいのではないでしょうか

古谷さんが「ダメおやじ」で描きたかったテーマは、実は民話の「三年寝太郎」でした。

「努力せず、寝てばかりいる男が、最後は庄屋の娘と結婚、アウトローが幸福になる話。
当時の農村では食うや食わずで、寝ていて幸福になるなど夢の話。

でもまさに「夢」だからこそ、現代にまで残った民話。
そんな話を描くことで、金儲けにアクセクする日本人が、ちょっとホッとするのではないかと思い、古谷さんは「ダメおやじ」を描いたのでした。

だが現実には、日本社会はますますギスギスし、「ダメおやじ」の残酷な前半が、日常化ています。

せめて、「ダメおやじ」の成功した部分も読み、人のために働くことで、企業家として大成功する雨野ダメ助の後半生を見習いたいものです。

そうするとオニババもタコ坊もイカ太郎もユキ子も、また違ったキャラクターに見えてくるのではないでしょうか?

古谷さんの「ダメおやじ」はギャグマンガ、ウンチクマンガであるとともに、すぐれた現代の「民話」でもあるのです。

 

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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