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日本地図はマップがない時代に伊能忠敬が作った日本最初の伊能図【大河への道】

日本地図はGoogleマップがない時代に伊能忠敬が作った日本最初の伊能図遅咲き人生の成功者
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TOM
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日本地図を最初に作った伊能忠敬(いのうただたか)という人物を知っていますか? 

こういった疑問に答えます。

日本地図はマップがない時代に伊能忠敬が作った日本最初の伊能図【大河への道】

 

日本地図を作った 伊能忠敬!

 

ゆず子
ゆず子

伊能忠敬は小学6年生の社会の教科書で、日本地図を作った人として大きく取り上げられています。

 

今回の記事では、江戸時代に初めて日本地図を作った「伊能忠敬」について紹介します。

本記事の要約

・伊能忠敬は二つの人生を生きる

・伊能忠敬 前人未踏の快挙

・奇跡のような「伊能図」

 

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徳伊能忠敬 二つの人生を生きる

古い日本地図 レトロ風地図

もう270年前の話です・・・江戸時代の延享2年(1745年)、現在の千葉県九十九里浜の真ん中、上総国山辺郡小関村に、のちの伊能忠敬は生まれました。

幼名を三次郎といい、生家の「小関」は、イワシ業の網主をつとめる村の名主で、相当の財力をもつ家でありました。

しかし、家つきの娘であった母が、忠敬7歳のときに亡くなり、小関家は母の弟が引き継ぎ、養子の父は子供をつれて実家に神保家に戻ってしまいました。

父の実家・神保家も名主をつとめる旧家であり、忠敬は読み書き算盤(そろばん)に専念できる恵まれた環境に育ちました。

宝暦12年(1762年)、18歳になった忠敬は、下総国香取郡佐原村(現・千葉県佐原市)の名家・伊能家の娘であるミチの婿養子になりました。

伊能家はこの頃、当主に恵まれず、家運は大いに傾いていて、入り婿となった忠敬は「倹約」と「信用」をもって、この養家を30年かけて再建していきました。

 

伊能忠敬、50歳から第二の人生をスタート

忠敬は50歳で隠居し、翌年=寛政7年(1795年)に、江戸に遊学、日本一の数学者と言われた、徳川幕府天文方の高橋作左衛門至時の門弟となりました。

忠敬は実は若い頃から和算に興味を持っていて、残りの人生を今でいう天文学・数学の研究に費やそうと考えました。

天文学とそれに結びついた科学的な測地法、その基礎となる「平面三角法」「球面三角法」などの高等数学を懸命に学びました。

正午の太陽の高さを測り、夕方の星の観測を欠かさず、一般人ならとてもできそうもない面倒な計算を根気強く続けました。

天体の位置の計算を、当時は進歩といいました。

そうしているころ、ロシアの蝦夷(現・北海道)侵略の風説が忠敬の耳に入ってきました。満足な地図すら持たない当時の幕府は急遽、日本全国の精密地図の作成を依頼しますが、作成する困難さ過酷な労働作業を理由に辞退する者が多く出る始末でした。しかし、50歳過ぎの忠敬がこの難事を引き受けることになりました。

生きている時間を少しでも有効に使うべく、忠敬は「量程車」と名付けた測量車を発明します。

車輪の回転によって、距離を測定するアイディアであったが、地面の凹凸や傾斜面では正確さを欠きます。忠敬は歩測を加味し、斜面であっても斜度をもって、平面距離に換算するよう己の足に覚えさせました。

また、測量の生命というべき磁石が、地球の真北を正しく指していないことに気づき、北極星を観測する方法を思いつきました。

さらに忠敬は1年間を使って、芝・丸山で斜面測量の実習を実施。江戸中を歩きまわっては、歩測の訓練を積みました。

寛政12年、56歳になった忠敬はついに蝦夷(現・北海道)へ向かいます。

●交会法

複数の点が一致する方位線を測量で結びながら、この単調な作業をただただひたすら繰り返していきます。ひとつの地域地図を作るのに、15、16万回という気の遠くなるような測量が繰り返し行われていました。

 

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伊能忠敬 前人未踏の快挙

忠敬の一連の作業は心身ともに極めて疲労を伴う過酷なものでした。また苦労は実務面だけではありませんでした。これらの準備資金や作業費用は自腹。幕府からの手当は無いに等しいかったのです。

交通の不便から、測量機器の運搬を幕府に申し出したが、受け入れてもらえず、そのくせ本州も実測せよと言ってくるありさまでした。

忠敬は、嫌気がさして測量をやめようとしましたが、師匠の高橋作左衛門至時から

「あなたのやっていることは、天下暦学の盛衰にかかわる大業である。もしやめるようなことになれば、これほど悔やまれることはない!」

という意味の内容の手紙をしたため、懸命に励まされました。

そうして、本州東海岸・東北・北陸などの日本の東半分の沿海図は、測量開始後、5年目で完成しました。

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伊能忠敬の奇跡のような「伊能図」

江戸時代の日本地図の測量法は画期的

忠敬の測量は、72歳まで続きました。この間、彼が歩いた距離は、4万3千キロ。地球を1周以上した距離になっていました。

西日本の地図を作成する頃には、彼の偉業は人々に認められるようになり、忠敬の測量隊は支援が増え、諸藩も協力する体制が整ったのでした。

文化15年(1818年)4月13日、もち病の喘息が悪化し、74歳の生涯を閉じました。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海興地全図」=「伊能図」が門人たちの手で幕府に納められますが、徳川幕府はこの地図を公開せず秘蔵にしていまいました。

文久元年(1861年)、イギリスの測量艦が日本沿海の実測を強行しようといた時に、幕府はやむなく幕府の人間をイギリス船に送り込むことで妥協しましたが、このとき案内用として幕府史に持たせたのが「伊能小図」でした。

イギリス測量艦に艦長ワード中佐は、

「われわれが測量しても、これ以上のものはできない。どうしてこんな素晴らしい地図が日本にあるのか!」

自分たちの測量結果と一部と寸分狂いのない地図に感激の声をあげました。

なにしろ「伊能小図」はヨーロッパで開発されたサンソン=フラムチード図法(地図投影法の一種=面積比が正しい)にのっとて描かれていたのです。

イギリス艦は測量を中止し、近海の測深をしたのみで、彼らは「伊能図」の写しを入手し、持ち帰ったと言い伝えられています。

このような話から幕府は、この地図を「皇国図」として慶応3年(1867年)のパリ万博博覧会に出品し、明治に入ってからは「伊能小図」をもとに、「大日本地図」を作成しました。

もし、日本に「伊能図」がなければ、日本の近代化は大きく遅滞したに違いないでしょう。

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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