高村光太郎の彫刻の手、千恵子を愛した芸術界の二刀流の遅咲き人生

高村光太郎の彫刻の手、千恵子を愛した芸術界の二刀流の遅咲き人生遅咲き人生の成功者

高村光太郎の「手」『乙女の像』という彫刻作品について知りたいのですが・・・

 

TOM
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私も高村光太郎に興味があります!高村光太郎はどん人物? 芸術家なの?

 

こういった疑問に答えます。

 

高村光太郎(たかむらこうたろう)は、大正、昭和の時代に活躍した彫刻家です。「近代彫刻の父」と呼ばれるロダンに影響を受け、精神を表現するような存在感のある作品を多く制作しました。生涯にわたり妻・智恵子を愛し続け、彫刻を彫り続けた高村光太郎です。

亡き妻・智恵子の姿を刻んだ「乙女の像」が最後の作品となりました。

 

 

高村光太郎の彫刻の手、千恵子を愛した芸術界の二刀流の遅咲き人生

 

今回の記事では、彫刻と同時に『道程』『智恵子抄』といった詩集を残した詩人としても有名で、本質は彫刻家、そんな高村光太郎の最愛の妻に捧げた人生についてまとめました。

 

本記事の要約
  • 高村光太郎の生い立ち
  • 高村光太郎の最愛の妻・智恵子との出会い、そして別れ・・・
  • 高村光太郎の『智恵子抄』『乙女の像』
  • 高村光太郎の芸術二刀流
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高村光太郎の生い立ち

高村光太郎(本当は みつたろう)は明治16年3月13日に誕生。

父・高村光蔵(光雲)は江戸末期から明治初期を代表する仏師・彫刻家です。東京国立博物館の重要文化財《老猿》や、上野公園の西郷隆盛像でも知られる重要な作家の長男として1883(明治16)年に生まれたのが、高村光太郎です。

15歳で父・光雲が教壇に立つ東京美術学校予備に進学し、翌年には本科へ進み、本格的に彫刻の道を歩みます。光雲と同じ彫刻の道を歩んだことで、2代目の苦悩を抱えて生きていくことになります。

文学の才能にも恵まれた光太郎は、在学中には与謝野鉄幹が刊行する同人誌に篁砕雨(たかむらさいう)の筆名で詩や短歌を寄稿していました。

明治35年、20歳で卒業。22歳の頃、オーギュスト・ロダンの「考える人」の彫刻の写真を見て衝撃を受けます。

「考える人」はフランスの彫刻家・フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンの作品です。ロダンは近代彫刻の父と言われ、「考える人」は彼の代表作です。

彫刻に現れた身体の生命感を感じ取り、ロダンの作品と思想の近代彫刻に傾倒していきます。

 

高村光太郎の欧米留学

光太郎は美術学校を卒業後、24歳から欧米に留学します。彫刻への見識を学び得るため、明治39年(1906年)ニューヨークで彫刻家・碌山、画家・柳敬助に出会います。

碌山もまた、ロダンに影響を受けた一人です。光太郎はその後、イギリス、フランスへと移り住み、欧米生活を通して芸術への情熱を営んでいきました。

明治42年(1909年)に帰国しましたが、日本は光太郎にとって窮屈な場所でした。

特に父・光雲は日本特有の古いタイプの職人肌の彫刻家であったため、耐えがたき嫌悪感を感じました。父や日本の封建的な考え方に反発し、不健全・不道徳な生活をしていました。

しかし、ニューヨークで知り合った柳敬助の紹介で智恵子と出会い、人生が変わっていきます。

高村光太郎の最愛の妻・智恵子との出会い、そして別れ・・・

その後光太郎は強い意志を持って生きていくを決意します。

大正3年(1914年)、詩集『道程』を出版。この年に光太郎32歳、智恵子29歳で結婚をします。

しかし、幸福な時間は長くは続きませんでした。

元々病弱だった智恵子は故郷の不幸により徐々に精神を病んでいきます。

智恵子に救われた光太郎は、今度は自分の一生を智恵子の病気のためにささげようと誓います。

智恵子は昭和13年(1938年)肺結核と精神病に苦しめられ53歳で亡くなりました。智恵子を思い続け、昭和16年(1941年)に詩集『智恵子抄』を刊行します。

 

情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、夫人の発病、そして永遠の別れ……
智恵子夫人との間にかわされた深い愛を謳う詩集。

いやなんです/あなたのいつてしまふのが――/花よりさきに実のなるやうな/種子よりさきに芽の出るやうな……」(「人に」)。
明治の末年、グロキシニアの鉢植をもってアトリエを訪れた智恵子嬢を〝人類の泉〟と讃えた恋愛時代から、〝東京に空が無い〟と語り合った幸福な結婚生活を経て、夫人の発病、そして昭和十三年十月の永別。しかも死後なお募る思いを〝智恵子の裸形を残して、わたくしは天然の素中に帰ろう〟と歌い、昭和三十一年四月の雪の夜に逝った詩人の、全生涯を貫く稀有な愛の詩集である。
巻頭に智恵子制作の切抜絵を付す。解説(「悲しみは光と化す」):草野心平。 引用:amazon

 

本書「解説」より
智恵子さんのゼームス坂病院での生活は三年八ヶ月だったが、、その間の高村さんの内部の苦しみは大変だったろうと思われる。
それは何年の何月頃だったか、その年月ははっきりしないが、或る日の夕方近く、私の勤めていたT新聞社に高村さんから電話がかかってきた。
「是非会いたいんだけど、都合のいいところ、銀座のどこでも……」(略)
私は息がつまるような気持ちになった。高村さんは私の手をギクッと握ると、いきなり
「ね、君、僕はどうすればいいの、智恵子が死んだらどうすればいいの?僕は生きられない。智恵子が死んだら僕はとても生きてゆけない。……
――草野心平(詩人)  引用:amazon

 

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高村光太郎は亡き妻・智恵子への思いを作品に込めていく

光太郎は、智恵子を失った悲しみに暮れていました。

太平洋戦争の時期とあって、自分の生きる意味や芸術への目標を見失い、戦争協力詩を多く発表していきます。

戦争中は空襲によるアトリエの火災で、多くの作品を失いました。自身は戦場に行くこともなく終戦・・・敗戦によって光太郎は、己の愚かしさに気づき、戦後身を置いたのが、詩人で童話作家の宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市でした。

光太郎は、生前ほとんど評価されていなかった宮沢の才能に魅了され、手紙などを通じて交流していました。

そして宮沢賢治が亡くなってからは、「宮沢賢治全集」の編集にも携わっています。
こうしたことから宮沢家は、終戦の直前、空襲でアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたのです。

光太郎は山のふもとに小さな小屋を建てて、自給自足の生活を送りはじめます。
1人山荘で暮らすなかで、戦時中の自身の行いに向き合い、詩を書き続けました。

また罪を償うような山小屋での生活において、智恵子への思いを刻むように多くの書を残しています。

約7年後の昭和27年(1952年)、十和田湖国立公園15周年記念像の制作依頼がきます。光太郎は依頼を引き受け、東京のアトリエに戻り制作を開始します。

昭和28年(1953年)に『乙女の像』が完成します。

智恵子をモデルとし、光太郎が特にこだわったのは、手の部分でした。
観音像のように折り曲げられています。手を合わせて向かい合う二人の裸婦の像は現在でも十和田湖畔にたたずんでいます。

 

高村は『乙女の像』の除幕式で、次のように述べています。

人間の心の中を、内部をみる。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている…片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです。(中略)みなさんの中には、また別なみなさんがいるし、それは時には二つも三つもあるわけなのです。だんだん深くなる自分があるのです。

 

「乙女の像」完成後、肺結核を発症した光太郎は、昭和31年(1956年)4月2日、73歳で人生に幕を閉じました。

智恵子と共に生き、智恵子に捧げた生涯でした。

 

高村光太郎の芸術二刀流

高村光太郎の手掛けた詩集『道程』『智恵子抄』は、教科書に載るほど有名ですね。

しかし、光太郎の本質は詩人ではなく彫刻家です。彼の本質は彫刻にあると語っています。

『詩』は音楽や絵画や彫刻と同じく、人間の全体性や自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で伝える感情表現です。

『彫刻』は、三次元空間に制作する視覚芸術であり、造形芸術です。

光太郎の代表作の『乙女の像』『手』などと、『智恵子抄』『レモン哀歌』などの「詩」の感情表現を形で表現した組み合わせたものなのです。

よって光太郎は、芸術界における二刀流を実践した人物なのです。

空襲によるアトリエの消失、亡き愛妻・智恵子との思い出の品を自身の手で焼き払うなどしたため現存しているものが少なく、どの作品も希少となっています。

 

 

まとめ

彫刻、詩と、多くの芸術作品を残した高村光太郎。最愛の妻・智恵子の死、苦しみを多く感じた人生だったかもしれません。

しかし、光太郎の残した作品はいずれも生命もったように生き生きとした存在感を放ち、見る人の心を惹きつけます。

 

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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