明治維新の立役者「坂本龍馬」勝海舟などの徳川幕府の人物たちは、なぜ一介の浪士を教え、援助し、育てたの?興味があります!
こんな疑問にお答えします。
坂本龍馬へ勝海舟や幕末の開明派からどうして援助があったのか?
徳川幕府からみた坂本龍馬
坂本龍馬は同士から人脈つくりの名人と呼ばれていました。人と接するとき本音で語り正論をもって論じていました。
今回の記事は、坂本龍馬に対して幕府側の人々はどのようにみていたいかをまとめました。
坂本龍馬 幕府要人の懐に飛び込む
坂本龍馬は勤王、左幕に区別なく日本の近代化のためならば、進んで親交をもちました。この破天荒な性格は、天性のものかもしれませんね。
藩という枠組みから離れ日本という国家感から大局的に物事をとらえました。龍馬はまわりに土佐(高知)は息苦しいと話して藩を捨て、日本の龍馬を目指しました。
江戸、京都、長崎、熊本、鹿児島、山口、福井・・・と東奔西走(とうほんせいそう)し船での移動はなんと2万キロ、地球半周に相当します。各地の当代一級の人物と親交をもち、勝海舟から海軍、佐久間象山から西洋砲術、河田小龍から西洋事情、横井小楠から政治学、由利公正から経済学を耳から学びました。
幕府の要人と親交をもつことに、なんの抵抗も感じることなく、議論し自らの脳裏に刻み込みました。
龍馬の頭脳には独特のメモリーのようなものが内蔵されていて奇策を思いつくことができます。実に不思議な発想にまわりは気をとられるのです。
260年余りの長期政権がもたらした徳川幕府の悪弊を、龍馬はこの壁を打ち破ることが先決であるとあえて幕臣の中に飛び込み、刷新を試みたのではないでしょうか。
幕府側の人々は龍馬をどうのようにみていたのか興味津々であります。
龍馬が親交をもった海軍奉行並の勝海舟、幕書調所総裁の大久保一翁、全越前藩主の松平春嶽らは徳川幕府を動かした人物たちです。
これらの人物の共通する点は、幕政改革の推進者であり、三人もまたお互い交流のありました。龍馬より一翁は18歳年上、海舟は12歳上、春嶽は7歳上でした。
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坂本龍馬の師となった勝海舟
勝海舟は、文政6年生まれで山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末三舟と呼ばれていました。西洋学者の佐久間象山に海防を学び、象山の書斎「海舟書屋」にちなみ麟太郎から海舟と名乗りました。長崎の海軍伝習所で学び、38歳の万延元年(1860年)には、咸臨丸で太平洋を横断し、サンフランシスコへ渡航しました。
有言実行型の海舟に若者たちは魅了されました。文久2年12月9日、赤坂の氷川神社近くの海舟亭へ土佐の浪人が訪れました。龍馬と千葉道場の千葉重太郎が血相を変えて斬りに来たといいます。
海舟のところにはこんな輩が暇にあかせてはやって来ます。振る舞い酒で少し議論しても時勢を読めない攘夷一点張りの者だから議論にならず帰ってい来ます・・・
龍馬との間の議論は詳しくわかりませんが、海舟150センチの小男の前に龍馬172センチの大男が端座して激昂した口調で海舟に「夷人と結託して、なぜ朝廷の勅許を得ずして無条件に開国を先導したのか、生糸問屋を夷人との取引で大儲けしているが、京の西陣では原料の生糸が入手できず織屋は困っている。ご存知か」と詰め寄りました。
このとき海舟は机の地球儀を回しながら静かにアメリカを指差して語りはじめたといいます。「龍馬君、アメリカでは将軍のことを大統領という。選挙という入れ札で選ばれる。選ばれた者は、何をもって政治をするかといえば、給金の一番安いホテルの給仕さんの生活をそうすれば守ることができるかを考えていた」
「徳川の将軍は大奥の女性たちの栄華のための政治をしている。このことひとつをとっても幕府はいっらない」・・・龍馬は耳を疑ったといいます。
さらに海舟は、「これからは、海軍を盛んにして日本を守るばかりか、西欧の侵略からアジアを守らなければならない」、大局的な言葉ひとつひとつに真実味をおびていた。
龍馬は海舟の言葉に洗礼を受けたように、弟子にしてほしいと申し入れしたのです。
坂本龍馬の志をかい、好感をもった松平春嶽
松平春嶽は文政11年(1828年)11歳のとき、将軍家 徳川家慶の命により15代越前藩主斉善(なりさわ)の養子になり、まもなく藩主となりました。名君の誉れたかく時代に即応した人材を登用し肥後藩から横井小楠を招聘し政治顧問としました。
文久2年(1862年)7月、政事総裁職に就任し、朝廷と幕府の意思疎通に尽力し幕政改革を断行しました。
坂本龍馬は、文久2年秋、江戸越前上屋敷を訪れ春嶽に会い大阪近海の海防について進言しています。一介の土佐の郷士がなぜ会えたのか?
春嶽は、将来あるこの青年を海舟や小楠であったら立派に育成するに違いないと、希望と賭けのようなワクワクした心持ちで紹介状をしたためたのでしょう。
龍馬は人との出会いを実学を学べるチャンスと物事に挑戦できると考えました。商人の血をひく龍馬は、発想の展開に一種独特のものを持ち合わせていました。
龍馬は、夢をかなえるためには資金不足でありました。
坂本龍馬、春嶽から5000両の援助を受ける
海舟の命を受けて龍馬は越前藩の春嶽に練習生宿舎等の建築費5000両を申し込みました。意外にも春嶽は援助をしてくれました。この金額は藩の年間費用に匹敵するものでした。
龍馬は春嶽がいかに海舟を信頼しているかを痛感しました。信頼は無限の財産というがまさにそうだったのです。
坂本龍馬を「真の大丈夫」と評した大久保一翁
大久保一翁は文化14年旗本の出身であった。若くして頭角をあらわし人材登用を推進していました。勝海舟を登用して海防掛として大阪や伊勢に海岸検分に海舟を同行させています。
海舟の紹介で面会した龍馬に「大政奉還」論を語っています。江戸城開城には海舟や山岡鉄舟らと無血開城に尽力し徳川家の助命嘆願をしました。
明治維新後は、5代目の東京府知事の要職に就いました。
文久3年4月2日、龍馬は一翁と江戸で面会しました。このとき龍馬は京坂の情勢を伝え、春嶽と海舟宛の手紙を預かっています。
一翁はよほど龍馬と意気投合したのか、横井小楠宛の手紙に龍馬を「真の大丈夫」武士の中の武士と評しました。
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