今日も歴史の勉強をしたけど・・
江戸時代の商人を知りたい
江戸時代の大商人の河村瑞賢はどう?
河村瑞賢はどんな人だった?
こういった疑問に答えます。
江戸の大商人・河村瑞賢
日本の経済発展の礎を築いたと評される郷士の偉人・河村瑞賢。
南伊勢町東宮に生まれ、田舎の出でありならがら、晩年には時の将軍・徳川綱吉に認められ、武士の中でも特に功績をあげた者が加えられる旗本の身分まで与えられました。
江戸時代の代表的な学者である「新井白石」とも深い親交があり、白石が瑞賢の功績を後世に伝えるために書いた二冊の本には
今回の記事では、そんな河村瑞賢(かわむら ずいけん)とはどのような人物かについて紹介します。
河村瑞賢(かわむら ずいけん)は人々に慕われた人物
【今日の墓碑銘】
1699年7月12日。河村瑞賢が死去。江戸時代の商人。貧農の家に生まれ12歳のとき江戸に出た。明暦の大火の際に木曽福島の材木を買い占め莫大な富を築く。幕命により奥州米を江戸・大坂へ運ぶ東廻海運と西廻海運を開拓。淀川治水のために安治川開削も手がけた
(81歳・病死) #生寄死帰 pic.twitter.com/81m4gq9Fbb— 義視🧬 (@kamo1868) July 11, 2019
瑞賢は、13歳で伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)からひとりで江戸に出立しました。当初は車力をして過ごしていましたが、あるとき品川の海辺に盆のお供え物に使われたナスやウリ、キュウリが流れているのを見つけ、これを漬物にして売って成功したことをきっかけに、商人への道を歩み始めます。
その人柄は人夫から幕府の役人まで様ような人を惹きつけ、後に材木の商売で大成功を納めたことで、ついに江戸中に大商人として、その名を馳せることになりました。
瑞賢は、商人としてだけではなく有能な土木家としても知られており、幕府から数多くの事業を任されて自ら指揮を執りました。
瑞賢の性格は・・・
役人や人夫たちから、慕われ新田や銀山の開発、大阪淀川の治水工事など次々に事業を成功させていきます。
最上川の舟運が発達したひとつの原因として、河村瑞賢による西廻り航路の刷新は忘れることが出来ません。
中でもその筆頭とされるのは「東巡りの航路」「「西廻りの航路」を開いたことによる海運航路の整備であり、その功績は日本の物流を大きく発展させるきっかけになったといわれています。
江戸経済が安定してくるにつれ、人口が増加し、主食である米の不足がクローズアップされてきました。
そこで米どころの多い日本海を通る西廻り航路の見なおしのため、幕府の御用商人である瑞賢が派遣されました。
瑞賢は苦心の末、酒田から下関経由の日本海西廻り航路を確立し、最上川を通して運ばれた物資を、安全に江戸に回漕することに成功させました。これにより酒田は、日本海航路上唯一の拠点として空前絶後の繁栄をみせました。
江戸幕府の命で河村瑞賢が勧請して掘らせた「舟通し」と呼ばれる運河を通ってみました。 pic.twitter.com/MF6DmXhh1T
— 藤原敦 誰がタヌキじゃ!今でも館長と呼ばれる (@dyc93101) August 10, 2019
河村瑞賢のゆかりの地
三重 南伊勢 東宮 不動の滝。(^ ^) pic.twitter.com/3nUiEaSS91
— motohiko sakaguti (@5758saau1) November 3, 2018
地元では「瑞賢さん」の愛称で今でも親しまれており、南伊勢町の東宮には瑞賢さんが子供のころ、家族の病気が治るようにと祈願をするために通ったと伝わる「東宮不動の滝」や、事業を成功させた際に寄進した八柱神社の「石の鳥居」などが残ります。
そんな瑞賢さんが生涯忘れることのなかった故郷東宮で、自然や歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
この投稿をInstagramで見る
伊勢参りは二見から〜古くから伝わる浜参宮〜
清き渚・二見浦
この投稿をInstagramで見る
お伊勢参りの際、伊勢神宮に参拝する前に訪れたい場所が「二見興玉神社」です。
二見浦は、神代に昔から清き渚と呼ばれた霊域であり、どこよりも清浄な浜辺です。
そして、かつて倭姫命がこの地を訪れた時、あまりの美しさに二度も振り返り見られたことから、二見浦と呼ばれるようになったと言われています。
二見浦に立石浜で汐水を浴び、心身を清めて汚れを落とし、清い体で伊勢神宮に参拝する儀式は「浜参宮」と呼ばれました。
「出張で宿がいっぱい!」こんな経験ありませんか?
「JTBオススメ出張」で急な手配も安心!
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
関連記事
江戸時代、多額なお金を手に入れた商人「高田屋嘉兵衛」の開拓者魂
二宮尊徳(二宮金次郎)は農村復興「報徳仕法」を政策した偉人”
伊能忠敬がすごいのは地図の測量を大義名分に天体測定をした天文学者だった
神君御文17条の徳川家康 の性格 はがまん強い性格から子育ては厳しい
ブログランキング参加しています、応援お願いします。
コメント