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昭和時代のジャズバンド言えばクレージキャッツ植木等「お呼びでない?こりゃ失礼しました!」

昭和時代のジャズバンドといえば植木等のクレージキャッツ「お呼びでない?こりゃ失礼しました!」教育
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音楽ジャズの全盛期っていつ頃だったのですか?

そんな疑問にお答えします。

日本のジャズ、昭和初期時代に躍動をあたえ日本音楽史においても重要です。
戦後の日本ジャズの隆盛は戦前の遺産無くして成立することはありえないのです。

日本は、太平洋の向こうのアメリカのジャズに敏感に反応していたのです。

 

日本のジャズは歌謡曲の発展とともに繁栄の時代を築きました。歌謡曲とジャズが融合していた時代こそ、日本人のジャズ魂がもっとも輝いていた時代。

そこで今回の記事は、日本のジャズの歴史とそのジャズの魅力から芸能界への道を歩んだ「植木等」のお話をまとめました。

「お呼びでない?こりゃ失礼しました!」

植木等

 

 

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日本のジャズ史の創世期

ジャズの創世期

ジャズは、アメリカのなかで「もっとも複雑な人種構成と地理的条件を備えていたニューオリンズという港町の特殊な社会環境と歴史的背景」から生まれた音楽です。

黒人の特有のリズム、労働歌、奴隷としての生活からうまれた悲哀に満ちた叫び、とクリオール(フランス人と黒人の混血)が持ち込んだ西洋音楽との結合によって誕生したのです。

ジャズ演奏の原型は、ロンド形式を主体とする十九世紀の西欧音楽の伝統にもとづいて作られました。1890年代にミズリー州シダリアやセントルイスを中心に流行。

そのピアノ演奏には黒人特有のシンコペーションが盛り込まれ、ジャズの要素になったのです。

黒人特有のリズム感と音楽的感覚、演奏者の個性が反映されるフレージング、楽器における固有の音を求めるサウンド、黒人特有の音階であるブルーノートなどがヨーロッパ音楽の楽器編成、メロディー、ハーモニーと融合してジャズという音楽ジャンルが形成されたのでる。

そして、ジャズは昭和時代の風景に心地よい響きをもたらしたのである。
そして、日本最初のジャズシンガー二村定一が活躍しました。

日本のジャズの夜明け

ジャズを楽しむ

日本におけるジャズの先駆は、明治45年アメリカ行きの東洋汽船の地洋丸(グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまりました。

波多野福太郎、奥山貞吉、田中平三郎、斉藤佐和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生でした。

彼らは、はてしなく広がる太平洋の海原を見てそのかなたにあるジャズの発祥の国に想いをはせ、期待に胸を躍らせます。まさか、この出航が日本のジャズの創成になろうとは思いもしなかったのです。

2週間あまりの船旅の末、アメリカ西海岸のサンフランシスコに到着。東洋の異国からやってきた波多野らの一行は、サンフランシスコで当時のアメリカ大統領ウイルソン大統領臨席の同市で開かれた全米キリスト教派の大同団結大会に飛び入り演奏して、拍手喝采を浴びました。

昭和時代に花咲いた日本ジャズ

ディック・ミネ

ディック・ミネ、中野忠晴らジャズシンガーが登場しました。

またエノケンのジャズ、川田義雄の浪曲ジャズなどのユニークな面も見られました。
女性歌手では妖艶なソプラノで歌う淡谷のり子、二世歌手の川畑文子、ヘレン隅田 ベティ稲田が活躍したのです。

昭和時代の風景の音空間の主役となったジャズは、東京のカフェー、ダンスホールでも鳴り響きました。

テイチクは、昭和6年2月11日、大阪・長堀橋筋に設立されました。同社の専属となったのはジャズ歌手のディック・ミネ。

 

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植木等登場!

植木等 わかっちゃいるけど、やめられない

出典:小学館

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昭和21年(1946年)1月、テイチクレコード本社で新人歌手のコンテストが開催されました。
これに参加した植木等は、1500人の内4人に選ばれてしまいました。

「俺は、本当に歌がうまいかもしれない・・・」と等は思いました。

等は、父親の鉄誠に会うなり考えていたことをぶつけました。

「坊主は死んだ人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。僕は生きた人間を楽しませたいから芸能界に入る!」

父は、酒落たことを言う等に怒鳴りつけ、その頭をゲンコツで殴りました。

「生意気を言うな、馬鹿野郎!」

母のいさほは、怒る気力を失い「これで親類縁者に顔向けができない」と泣き崩れたそうです。
そして、等が5年間修行した真浄寺の住職も「僧になるはずの人が芸能界入りとは何事です。あなたはなんのために辛い修行をしてきたのですか?!」と言われます。

しかし、等は諦めませんでした。そんな等の耳に・・・

体が自然と動き始めるような音楽が遠くから届きました。その音楽は・・・
世界と未来の匂いがした、ジャズでした。

 

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植木等 運命の出会い

戦争が終わるのと、等が芸能への道を歩み始めるのがほぼ同時でした。

それは、等の人生で最初にして最大の、自分の意志による生き方の選択でした。

 

植木等は、両親に反対されてもひるまず、ブレませんでした。

断固として芸能への道を選び取ったのです。

終戦の翌年の昭和21年(1946年)テイチクレコードの新人歌手コンテストを受けた後、ボーヤ(バンドボーイ)を探しているという噂を聞きつけ、「利根勝美楽団」を訪ねます。

そこで、背広を着て偉そうにしていた16歳の少年。
それが池袋の水道屋を継ぐはずだった”野々山定夫”ことあとの「ハナ肇」でした。

 

これが運命の出会い、波乱万丈な人生を送った人が重ねた出会いと別れの数は並の人間の比ではないのです。
植木等と野々山の出会いは、この先に続く若き才能同士の無数の出会いの始まりでした。

 

クレージーキャッツとテレビ時代に至る道程の始まりでした。

最後までお読みいただきまして

ありがとうございました!

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