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トム・ハンクスの遠い親戚のリンカーン大統領は挫折しなかった英雄

どん底からの逆転人生
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TOM

以前の記事で「トム・ハンクス」は、第16代アメリカ大統領の
エイブラハム・リンカーンと遠い親戚関係あると話をしましたね。

 

ゆず子

第16代アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンってどういう人物だった?

 

こういった疑問に答えます。

 

幼くして母を失い、小学校に9ヶ月間しか通えなかったアメリカ大統領

結論:
・小学校に9ヶ月間しか通えなかった。
・9歳で母が死亡、19歳で姉が死亡。26歳で婚約者が死亡。

雑貨店を経営するが  倒産し、借金の返済に17年間の月日を費やす。

・政治家の道を志すが、生涯において7回も選挙で落選。
・40歳の時に長男が、53歳の時に三男が死亡。

このアメリカ人男性の正体は.・・・
↓↓↓ハリウッド俳優「トム・ハンクス」の遠い親戚関係にある
第16代アメリカ合衆国大統領 エイブラハム・リンカーンです。

 

この小学校に9ヶ月間しか通えなかった男の名前は「エイブラハム・リンカーン」。

19世紀前半に活躍した人物ですが、現代においても「最も偉大な大統領」の1人として名前が挙げられています。

リンカーンが語った「Government of the people,by the people,for the people(人民の、人民による、人民のための政治)」は、日本の教科書にも登場しているほど。

苦難の連続でも挫折しなかった闘志、まさしく「英雄」という称号がピッタリの偉人ですね♪

今回の記事は、エイブラハム・リンカーンの生涯、どん底からの這い上がり人生をを紹介します。

 

関連記事:トム・ハンクスとエイブラハム ・リンカーンの関係とは?

トム・ハンクスも取材を受けた時に語ったことがありました。

 

 

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エイブラハム・リンカーンの生い立ち

1809年2月12日、後の大統領エイブラハム・リンカーンは、ケンタッキー州の辺境のさらに郊外にある丸太小屋で誕生します。

7歳のときに一家はインディアナ州へ引っ越しますが、9歳のときに母親が伝染病にかかり死去

父親には学歴がなく、貧しい家庭に生まれ育ったリンカーンは、最低限の基礎教育しか受けることができませんでした。

しかし彼が10歳のときに父親が再婚し、この継母となった女性のおかげでリンカーンは学びの楽しさを覚えます。

「お母さん」と呼んで慕った継母は、彼に読書の良さを教え、その影響でリンカーンは少年時代から多くの書物によって知識や教養を身に着けていきました。

後にリンカーンが弁護士となり、政治家を経て大統領になれたのは、この継母の存在が大きなカギとなっていたのです。

 

リンカーンが政治家としての活動を開始したのは、25歳の頃からです。

イリノイ州の議会議員選挙にホイッグ党員として立候補し、当選しました。

当時郵便局で局長を務めていた彼は、仕事と並行して弁護士の勉強も始めます。

27歳のときに弁護士資格を取得すると、議会議員を務める傍ら弁護士としての活動も開始し、2足のわらじを履いた生活が始まりました。

そして37歳のときに同州の連邦下院議員選挙に出馬し、見事当選を果たします。

しかしその後は一時政界の中心から遠ざかり、約10年の間、弁護士としての仕事に集中した日々が続きます。

この頃の弁護士としてのリンカーンは、正義感が強く貧困者に対しても真摯な弁護に取り組み、「正直者のエイブ」という愛称で親しまれました。

独学で最終的には大統領にまで上り詰めたリンカーン。

しかし彼の人生は決して順調ではありませんでした。

26歳のときには深刻なの発作に見舞われ、31歳のときにも再びその症状に苦しめられます。自殺を考えるほど追い詰められた時期もありました。
さらに、リンカーンは生涯で4人の男児を授かりましたが、そのうち無事に成人を迎えたのは長男だけ

その影響もあり、夫婦仲も良好なものとは言えない状態だったのです

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エイブラハム ・リンカーン大統領への道

リンカーンに転機が訪れたのは、彼が50歳を目前に控えた年でした。

弁護士生活を送っていた1850年代、アメリカは北部と南部で奴隷制の拡大に対する対立が過激さを増していました。

 

 当時のリンカーンの意見は、

・従来から続く南部諸州における奴隷制の維持は認める
・しかし北部への拡大には反対
・徐々に奴隷制を廃止の方向へ持っていく

 

といったものでした。

しかしその情勢は、徐々に奴隷制の拡大派が優勢になっていったのです。

そのことに危機感を抱いたリンカーンは、正義感の強さも相まって再び政界に戻ることを決めます。

47歳のときに共和党に入党すると、49歳で連邦上院議員の立候補者に選ばれ、奴隷制拡大の廃止を主張します。

奴隷制維持論者の民主党代表との選挙戦は、全米に注目されるものとなりました。

このときの選挙結果では当選こそ逃したものの、リンカーンは奴隷制拡大批判派の共和党を代表する有力な政治家として、人々に認識されることになります。

そして51歳のときに迎えた大統領選挙では、民主党代表とは大差をつけて当選を果たしたのです。

 

こうして翌年の1861年、52歳でアメリカ合衆国第16代大統領に就任したリンカーン。

しかし南部連合軍の北部要塞への攻撃により、間もなく南北戦争が勃発しました。

開戦当初は劣勢に立たされていた北部でしたが、その後徐々に盛り返していきます。

リンカーンはその間、後の「奴隷解放宣言」の布告に向け、草案を準備していました。

そして1863年の元日に「奴隷解放宣言」を布告。

11月にはゲティスバーグの国立墓地をつくる式典において、「人民の人民による人民のための政治」という文言で有名な演説を行い、アメリカの新たな自由の誕生と民主政治の根本を唱えました。

そして12月、南部の反乱州に対しての「大赦と再建の宣言」を布告し、アメリカの再統一を図ることを示します。

翌1864年、北部の勝利がほぼ確定したこの年に大統領選挙が行われると、圧倒的支持者の数で再選。

翌年3月には56歳で2期目の大統領に就任します。

そして4月9日に南北戦争が終結してわずか5日後、リンカーンはワシントン市内のフォード劇場で観劇中に狙撃され、翌日息を引き取ったのです。

エイブラハム・リンカーンの名言

君の決心が本当に固いものなら、もうすでに希望の半分は実現している。夢を実現させるのだという強い決意こそが、何にもまして重要であることを 決して忘れてはならない。

 

 

自己の向上を心がけている者は、喧嘩などする暇がないはずだ。おまけに、喧嘩の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよ喧嘩はできなくなる。

 

そのことはできる、それをやる、と決断せよ。それからその方法を見つけるのだ。

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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