日清食品のカップヌードルは色々な種類があり、とても食べやすく美味しいけど、このラーメンを作った人物って誰?
そんな疑問にお答えします。
チキンラーメン、カップヌードル、どん兵衛、焼きそばUFO、ラ王、カレーメシ、そして新製品 変な外人が歌って踊るコマーシャルの辛麺 など数々のヒット商品を生み出し 子供からお年寄りまで幅広く愛されている日清食品この日清食品の創業者をご存じですか?
日清食品とインスタントラーメンを生んだ安藤百福
学ぶのに遅いということはありません。遅咲きの天才(遅咲き成功者)というのは、歴史を学んでみると案外たくさんいますよ。
30代、40代、50代 あるいはもっと年齢を重ねていたとしても、新しいことをはじめるには相当の勇気がいります、第一歩を踏み出したなら可能性は無限に広がります。
もちろん、何かを極めるのに、学ぶのは早い方が有利です。また、忙しい日々に心身ともに疲れているサラリーマンビジネスマン、主婦では「今更 自分が新しいことを始めるなんて無理だよなぁ〜」とチャレンジせず諦めてしまいがちです。
どうして夢を諦めてしまうのか?
人生を大逆転させる熱い思いは湧いてこないのか?
そこで今回の記事では そんな諦めモードのあなたへ諦めないで欲しいという思いを込めてメッセージを送ります。遅咲きの成功者 安藤百福さん(日清食品創業者)の高年齢から新しいことを学び成功した内容をまとめました。
日清食品 カップヌードルの生みの親 安藤百福さん生い立ち
おはようございます
3月5日は故安藤百福氏の誕生日に因み
「安藤百福の日」になっています世界的ヒット商品カップヌードルは
安藤氏が自ら新しい手法を発案し課題
を次々と解決した末に誕生したもので
安藤氏は「ひらめきは執念から生まれる」
と語っていたそうです本日もよろしくお願いします pic.twitter.com/yLYXPWYzOJ
— かず@北海道 (@kazu_hokkaido) March 4, 2022
1910年(明治43年)3月5日 – 2007年(平成19年)1月5日
創業者・安藤百福は、ハレー彗星が地球に大接近した1910年に生まれました。
日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉 百福(ゴー・ペクホク)台湾本島人のため戦後は中華民国籍となり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)しました。
幼い頃に両親を亡くし、呉服店を営む祖父母のもとで商売の現場を間近に見ながら育ちました。
独立心と事業意欲が旺盛だった安藤百福さんは「誰もやっていない新しいことをやりたい」と、最初に選んだのは繊維事業。
22歳の若さでメリヤスを販売する会社を設立すると、大成功を収めました。
ほかにも、幻灯機の製造、炭焼き事業、バラック住宅の製造、製塩や学校の設立など、さまざまな事業を手がけました。
時代の流れをいち早くキャッチして、すぐに事業化するベンチャー精神と、失敗してもあきらめないバイタリティーは、この頃から芽ばえていたのです。
そして、どんな事業も「何か人の役に立つことはないか」「世の中を明るくする仕事はないか」という確固たる信念のもとに行われていました。
終戦後、食糧難となった日本では、おなかをすかせた人々が街にあふれ、栄養失調のために行き倒れになる人が後を絶ちません。
この悲惨な光景を見て「やっぱり食が大事。
食がなければ、衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と食の大切さを痛感しました。
日清食品 カップヌードルの生みの親 安藤百福さん刑務所生活
脱税による嫌疑
当時38歳 1948年(昭和23年)12月 、敗戦後、塩を売ったせいでGHQ(敗戦下の日本を統治していたアメリカ軍)に脱税の嫌疑をかけられた。
安藤氏は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由でした。
判決は4年間の重労働の刑で、巣鴨拘置所に収監さます。
さらに安藤氏が個人名義で所有していた不動産は全て没収されました。
収監後、GHQは百福の名を挙げて「納税義務に違反した者は厳罰に処す」という内容の談話を発表した。安藤氏はこの一件について、「みせしめに使われたようだ」と述べている。
48歳までは刑務所生活などを送りました。
大阪華銀の破綻、背任罪で有罪判決
収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった。
大阪に新設された信用組合の大阪華銀から懇願され、その理事長に就任したが、1957年(昭和32年)9月に大阪華銀は破綻し「いよいよ無一文になった。
この破綻において安藤は小豆の買い占めに大阪華銀の資金を流用したとして背任罪に問われ、執行猶予つきの有罪判決を受けた。
安藤百福 チキンラーメン誕生
4月19日 (火)
グッド ローリング !! ☀️今日も ( `・∀・´)ノヨロシク ♪
✅48年間 365日 毎日ラーメン#チキンラーメン 開発者の安藤百福 氏は96歳で亡くなるまで毎日チキンラーメンを食べ続けました !#備蓄#ローリングストック推奨#インスタントラーメン#防災https://t.co/nBROCpHyoS pic.twitter.com/ItQpgkV3ag
— ジョン・粉 (@PrepperJohnCon) April 18, 2022
インスタントラーメンの開発
安藤百福さん 48歳で人生の再スタートが始まった!
すべての財産を失った。
しかし、安藤氏は「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」そして、闇市のラーメン屋台に並んだ人々の姿と、日本人が麺類好きであることを思い出し、
“お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン“
を作ろうと決意します。無一文の生活から這い上がるため、夢の実現へ向けて、始動を開始しました。
1)おしくて飽きがこない。
2)保存性がある
3)調理に手間がかからない
4)安価である
5)安全で衛生的
の5要件を満たすものと決定。
早朝から深夜まで小屋に引きこもり、
インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けました。
チキンラーメンの発売
インスタントラーメンの開発は1958年の春に完成。
貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行わました。
1958年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。
チキンラーメンの需要は、ある日突然バズった!
価格をうどん玉6円、乾麵25円に対し、チキンラーメンは35円。
小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになり三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に土地を購入して工場を建設しました。
新製品の発売時期
転んでもただでは起きるな。
そこらへんの土でもつかんで来い。事業のヒントは周りを見わたせば、
どこにも転がっている。事業化できないアイデアは、
単なる思いつきにすぎない。本当のアイデアとは実用化されて、
成功を保証するものである。
事業を始めるとき、
金儲けをしようという気持ちはなかった。何か世の中を明るくする仕事は無いかと、
そればかり考えていた。
さいごに
学ぶのに遅いということはない!
あきらめない 情熱を持ち どんな状況でも、失敗しても 努力 行動を継続すれば30代、40代、50代 老年期になってからでも新しいことをはじめて 成功するチャンスはあります!
あきらめのくせのある方は、是非これを読んで夢への第一歩を踏み出してください。
“四十にして惑わず”と言いますが、それは人生50年時代の話でした。
人生100年時代の今は、四十でも惑ってばかり J.ダイソンは39歳で掃除機を売り出し、安藤百福は48歳でカップラーメンを発明 カーネルおじさんは65歳でケンタッキーを創業し、ファーブルは84歳で『昆虫記』を完成させた 40歳50歳なんてまだまだ若者です!
あなたも是非、下記の著書を読んでチャレンジ精神を!
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
応援お願い致します。
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