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徳川家康の遺訓は「堪忍自重」人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし

徳川家康の遺訓は「堪忍自重」人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし教育
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TOM
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徳川家康の遺訓」、その中にある「堪忍自重」はどういう意味なの?

こういった疑問に答えます。

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今こそ徳川家康の「堪忍自重」を!

 

不況による閉鎖感が、長く日本を覆っています。出口の見えない不安と焦燥・・・・・こうした時、これまでならば、決まって思い起こされた歴史上の人物がいました。

今回の記事では、徳川家康の遺訓から「堪忍自重」に関する内容をまとめてみました。

本記事の要約

・徳川家康の遺訓

・徳川家康と織田信長

・徳川家康は「愚直な律義者」

 

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徳川家康の遺訓

まずは、次の言葉をご一読いただきたい。

人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくがごどし、いそぐべからず、不自由を常とおもへば不足なし、心に望おこらば、困窮したる時を思ひ出すへし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝事ばかり知りて、まくる事を知らされは、害其の身に至る。おのれを責て人をせむるな。及さるは過ちたるよりさまれり。

この意味は、おおよそ次のようなものです。

人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。

 

戦国乱世を統一した天下人・徳川家康の遺訓と伝えられています。どうでしょう、昨今の不況の時勢下、説得力をもっていますね。

もっとも、この家康の遺訓は後世の、それも明治に入ってから、語られて来た家康の性格を念頭において潤色した偽作です。

そのことは、尾張徳川家第21代当主の徳川美術館の艦長を務めた、故・徳川義宣(よしのぶ)氏によって明らかにされています。

しかし一面、この遺訓は家康その人の実像をしっかりと掴んでいます。

家康は長い不遇の時代を、歯をくいしばって生き抜き、ついに天下人になりました。

企業の経営者の多くが、この人物に学ぼうとしたわけですが、見方を変えれば家康の二十代、三十代の生き方は、現代を生きる若者にとっても、大いに参考になります。

家康には意外なクセがあった

徳川家康の意外な癖

ここ一番という大事な局面に遭遇すると、家康は無意識に爪を噛むのです。周囲の者からいくら注意されても、ついに生涯このクセは直りませんでした。

先の悟ったような遺訓を読んだあとで、このような話を聞くと徳川家康の実像に相違がありすぎて混乱されるかもしれませんが、このギャップにこそ徳川家康その人の人間性が秘められていると解釈します。

結論から先にいえば、家康はもともと短気で激情型の、俗にいう血の気の多い人であったのです。

爪を噛むクセは、己の感情を抑えるためのものだったのです。

しかもその感情をたびたび抑えかねたこそ「堪忍は無事長久の基」といい、「いかりを敵と思へ」と痛切に感じて自身も猛省したのでしょう。

徳川家康の人質時代

天文十一年(1542年)12月26日徳川家康こと松平竹千代は、三河(現・愛知県東部)岡崎城主であった松平広忠の一人息子として生まれました。

世の中が乱世ではなく、江戸期のように泰平であったならば、あるいは竹千代は周囲に隠居させられる、いわゆる「押込め」のような目にすらあっていた可能性は高かった。

戦国時代において、人質という異常な経験をしていなければ、家康は家臣に寝首を襲われていた公算があります。

なにしろ、血の繋がりのある父の広忠は、24歳の時に家来に暗殺されています。祖父清康も25歳の時に、家臣に誤解されて斬り殺されています。

家康の長男・信康も家臣の反感をかって、結果21歳で織田信長に切腹させられています。

なんの障害もなく、また、苦境を経験することなく成長していれば、家康も祖父や父・息子と同じ運命を辿りかねなかったでしょう。

俗にいう、「禍福はあざなえる縄の如し」であります。

家康は6歳から19歳までの約14年間に及ぶ人質生活が幸いしたと言えるでしょう。(織田家2年間、今川家12年間)

この間、家康は屈辱や劣等感と戦いながら懸命に生き残る術を模索しています。忍耐力、従順さ・・・。それがいかんなく発揮されたのは、頭を押さえてつけられていた今川義元が、信長に討たれ、己の独立が自由になったときです。

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徳川家康と織田信長

ようやく父祖の地を奪還した家康は、諸般の事情を考慮して織田信長と攻守同盟を結びます。

しかし、織田信長は家康に対し対等の同盟者とはみなさず、ほぼ普通の一部武将と扱いました。家康は一度も不平不満を言わず21年間、信長と提携をしました。

信長に煮え湯を飲まされのは1度や2度ではありません。また家康が信長から受けた恩恵はわずかしかなったのです。

関連記事:織田信長は天下統一を目指した武将であり上司にしたい人物1位

 

徳川家康VS武田信玄

元亀三年(1572年)10月、”天下無敵”と称された武田信玄が、上洛戦を敢行すべくついに動き出します。当然、正面の敵はこの頃、三河・遠州を版図としていた家康になります。

家康は、信玄により近い遠州浜松城に入りました。しかし家康は、信長から三河の線まで下がるように、再三忠告を受けています。なぜならば武田勢は2万七千の兵力であり、家康は六千、信長から援護を受けてもせいぜい九千余にしかなりません。

家康は軍勢を率いて、三方ヶ原へ出撃しました。ここで武田勢を奇襲し、一挙に雌雄を決して、あわよくば信玄の首を挙げようとしましたが、いかんせん、無敵を誇る武田勢はむしろ徳川勢を待ち構えており、津波のようなに鎧袖一触(がいしゅういっしょく)。徳川・織田連合を呑み込むと瞬時にして三百以上もの死体の山を築いたのです。

家康は敗戦の中を、ついにはただ一騎となって逃げ迷い 緊張と恐怖から馬の上でつい脱糞してしまったほどです。

家康は「所詮、わたしは織田殿にはなれない」と九死に一生の大きな学びをしました。

以来 家康は信長を立て、その分配を安全に受け取り、欲を決して露わにせず、信長に嫌われないように自分を懸命に抑え続けました。

 

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徳川家康は「愚直な律義者」

天下統一 徳川幕府

「天下」を望まず・・・・織田信長が本能寺に横死しても家康の姿勢は変わらなかった。

織田家の内部抗争を横目に、ひたすら自領を拡張。信濃(現・長野県)と甲斐(現・山梨県)の二国を手に入れ、瞬く間に五カ国の大判図を築いていったのです。

豊臣秀吉が信長の後継者になってからも、家康の律義者の看板は変わっていません・・・

律義者の姿勢を変えるのは、秀吉の没後、キャリアでほぼ互角の前田利家がいよいよ再起不能になってから、それを見届けてからのことでありました。この時家康は58歳でした。

人間の寿命は伸びています。不況の中を耐え忍び、その後におとずれるであろう好機こそ、本当の勝負を挑むべく、今を堪忍自重してみるのも、一計ではないでしょうか?!

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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コメント

  1. こて より:

    ありがとうございます🤗

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