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織田信長 ・徳川家康 などの戦国武将から学ぶ人の育て方と生き抜く知恵

教育
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TOM

戦国時代を生き抜いた武将たち、織田信長・徳川家康・明智光秀などはどうやって後継者や人材を育てたの?また戦国時代を生き抜いた知恵を知りたい!

 

こういった疑問に答えます。

 

織田信長 ・徳川家康 などの戦国武将から学ぶ人の育て方と生き抜く知恵

 

 

 

戦国時代に入ると、全国各地の戦国武将が勢力を増し、あちらこちらで領地支配などの戦が絶え間なく行われました。

その勢力地域が最も大きく変化したのは、桶狭間の合戦直前の1560年から関ヶ原の戦いが行われた1600年までの40年間。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、日本史に大きな影響を与えた時期です。

今回の記事は、そんな戦国時代を生き抜いた武将たちの後継者育成や生きるための知恵をまとめました。

 

■この記事を読んでわかること

・織田信長・徳川家康などの戦国武将の人材育成方法と生き抜く知恵がわかります。

 

 

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織田信長は天下統一を目指した武将であり上司にしたい人物1位

 

戦国時代がはじまってから50年。伝説の戦国武将が勢威をふるいはじめる。織田信長が26歳頃は尾張国のみを統治していました。

①1550年/砥石城の戦い
②1553〜1546年/川中島の合戦
③1555年/厳島の戦い
④1557年/稲葉山城の戦い
⑤1560年/桶狭間の戦い
⑥1560年/小田原城の戦い
⑦1568年/月山富田城攻め
⑧1569年/多々良浜の戦い
⑨1570年/姉川の戦い

天下統一をめざした織田信長。統治していた国は尾張国のみだったにもかかわらず、最後は日本の中心部をほぼ支配しています。

①1572年/三方ヶ原の戦い
②1575年/長篠の戦い
③1575〜1580年/三木合戦
④1578年/耳川の戦い
⑤1582年/本能寺の変

織田信長は世間では、残忍なイメージがあります。その理由として

  • 一向一揆衆を滅ぼす
  • 延暦寺の焼き討ち
  • 裏切った浅井長政の頭蓋骨を盃にする

対立していた一向一揆衆の捕虜、延暦寺にいた女性や子供も処刑したことで残忍なイメージがあります。日本の戦国時代や幕末でも、相手の勢力を根絶やしにする話があまりないので、余計目立ってしまうのかもしれません。このように、現代の感覚だと必要以上に殺りくをしていた印象は否定できません。

 

織田信長のOJTによる人材育成

子育ての対象は、嫡男の信忠です。16歳から武将への育てを開始しました。

ご存知の通りOJTは、On -The -Job-Trainingの略です。すなわち実地訓練・現場教育、実践を通じて多くを学ぶことです。

戦の現場が武将を育てる最高の環境である。
信忠を育てていくという形では、経験を積ませるということが大切です。
実際の戦により、戦術面や戦略面とか、大将として軍勢をどう率いていくかという全体的なことを学ばせるという形を取りました。

 

 

 

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明智光秀の本能寺の変なぜ織田信長を討ったのか?明智光秀はどんな人物?

 

明智光秀と聞くと、「織田信長に謀反を起こして裏切った」や「真面目な性格が信長と合わなかった」とイメージを持つ人も多いと思います。

光秀が織田家の家臣になった頃には、すでに豊臣秀吉や柴田勝家とは序列が離れていましたが、天正三年(1575年)頃には、方面軍司令官と呼ばれる、攻める地域別の責任者の一人として名を連ねます。

本能寺の変とは、1582年に明智光秀が主君である信長を裏切った事件のことを言います。本国寺と呼ばれるお寺に三好三人衆が攻めてきた時に撃退した戦いのことです。当時、将軍足利義昭が仮御所として滞在していた、本国寺。

近畿地方を支配下におさめつつあった信長は、中国地方を自分のものにしようと考え、羽柴秀吉らを向かわせます。光秀も秀吉とともに戦うため自分の軍隊を丹波(現在の京都府から兵庫県あたり)まで進めますが、突然軍隊を引き返し、信長がいる本能寺に襲いかかります。

この時、本能寺に向かう途中の光秀が言ったとされるのが「敵は本能寺にあり!」という有名な言葉です。

 

 

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徳川家康と豊臣秀吉との大阪城の決戦!大阪城の秘密と隠れ人物の謎を解く

慶長19(1614)年、慶長20(1615)年の2回にわたる戦国最後の大決戦。「大坂の陣」。

徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した場所は大阪城。徳川家康の奇想天外な大作戦とは!?さらに天下統一の鍵を握る謎の戦国武将がいた!彼が仕掛けた秘策とは?

関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、実質的な天下人となった。日本の中央部から山陰や九州にも手を伸ばしています。

①1590年/小田原の戦い
②1600年/長谷堂城の戦い
③1600年/関ヶ原の戦い
④1615年/大坂夏の陣

 

 

神君御文17条の徳川家康 の性格 はがまん強い性格から子育ては厳しい

 

江戸幕府を開いた天下人・徳川家康の子育ては苦労の連続だった! わがままに育った長男・信康に大いに悩まされた家康は、二代将軍となる秀忠の子育てには、ことのほか慎重だった。

晩年の家康が秀忠夫人・お江に宛てた貴重な手紙に記された「子育てにおける17条の教訓」(神君御文)をひもときながら、家康がどのようなことを大切に考えてわが子を育てたのか、その“子育て方法”は?

徳川家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉が有名です。この言葉から想像できるのは徳川家康はまさに、“忍耐”の人でした。

徳川家康は、幼少時代に織田や今川の人質として過ごし、三河を治める大名となってからも武田信玄や一向一揆に苦しめられ、数々の苦い経験をしています。
しかし、耐え忍ぶ経験から多くのことを学んだからこそ、天下を統一できただけでなく、260年余りも続く江戸幕府の礎を築くことができたといえるでしょう。

徳川幕府の命運を握るのは2代目・・・にかかっている・・・家康の後継者を「できるやつ」に育てあげることに取り組みます。

「神君御文」(しんくんおふみ)という徳川家康が息子の秀忠の妻 お江に宛てた手紙です。

子育てにおける17条の教訓を家康自らの経験をもとにさとしたとされています。いわゆる徳川家康の教育方針です。

ではいったい子育てをどのように考えていたのでしょうか?

 

 

 

まとめ

歴史には「教訓」と「ドラマ」が詰まっている!

戦国武将をこうして一人ひとり注目してみると、皆それぞれが自らの個性、特性を武器に精一杯、時代を生き抜こうと努力していたのがよくわかります。

もちろん、彼らがここまで必死だったのは、文字どおり「戦での敗北が、そのまま死に直結するから」です。当時の日本が過酷な時代だったことをあらためて強く実感します。

戦国時代は、群雄割拠の争いの中、たくさんのヒーローたちが生まれ、また消えていった時代でした。その中で歴史に名を残した武将には、それぞれの「学ぶべき長所や教訓」が少なからずあります。

また、今回とりあげた戦国武将たちは実際には直接対決していないことも多く、「もしも知謀の毛利元就ならば、武田信玄にどう挑んでいただろう?」などと想像をめぐらすことも、歴史の楽しみ方のひとつです。

ぜひ、「教訓」と「ドラマ」が詰まった歴史を学び直すことで、現代を生き抜く知識と教養を、楽しみながら、身につけてください。

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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