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徳川家康と豊臣秀吉との大阪城の決戦!大阪城の秘密と隠れ人物の謎を解く

徳川家康と豊臣秀吉との大阪城の決戦!大阪城の秘密と隠れ人物の謎を解く教育
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TOM
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1615年の徳川家康と豊臣秀吉の大坂城「大阪の陣」の歴史は有名だけど、徳川家康はどのような作戦?秘策はあったの?

 

こういった疑問に答えます。

 

徳川家康と豊臣秀吉の歴史を変え天下をわけた大阪城決戦!

 

慶長19(1614)年、慶長20(1615)年の2回にわたる戦国最後の大決戦。「大坂の陣」。

徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した場所は大阪城。徳川家康の奇想天外な大作戦とは!?さらに天下統一の鍵を握る謎の戦国武将がいた!彼が仕掛けた秘策とは?

今回の記事では、徳川家康と豊臣秀吉の大阪城対決の裏エピソードをまとめてみました。

 

本記事の要約

・徳川家康の「世襲制」という秘策

・天下分目の決戦『大阪の陣』

・大阪城決戦

・天下統一の鍵を握った戦国武将、藤堂高虎

 

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徳川家康の「世襲制」という秘策

徳川家康の意外な癖

豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の将来を、徳川家康に託しました。この他人任せの判断が、豊臣家滅亡の大きな要因となります。

その秀吉は1598年3月、醍醐三宝院で盛大な花見を催した後、体調を崩して床につきます。5月以降、下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛が続き、痩せ衰えて病状は悪化。漢方薬も効果がなく、失禁もあった。8月18日、永眠。享年62。

 

関ヶ原の戦い、慶長5年(1600年)に、全国の主だった戦国大名が東軍と西軍に分かれ、美濃(みの)の「関ヶ原」で戦ったという史実です。 東軍のリーダーは徳川家康、西軍は石田三成(みつなり)でした。 日本の支配者が決まる大きな合戦だったことから、「天下分け目の戦い」と表現されることもあります。

石田三成率いる西軍は敗北。豊臣秀吉の親友であった前田利家の死、豊臣秀吉の息子・秀頼も大きく勢力は削がれたが、権威はキープされ所領は大きく減り、諸大名並みとはなったものの、権威は未だ落ちぶれていませんでした。朝廷側も、秀頼を秀吉と同様に扱ってました。

 

託された徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利。その3年後、慶長8(1603)年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。豊臣秀吉の想定通り、徳川家康は天下人となったのです。

 

徳川家康の突然の世襲制の宣言

慶長10(1605年)4月、豊臣秀頼、12歳前右大臣への昇進。しかし、家康は、将軍職を徳川秀忠へと譲ります。家康、御年63歳。徳川家の裏切りとなる、突然の「世襲制」の宣言でありました。

これ対し豊臣秀吉の正室の淀が激怒します。
あれだけ秀吉からお願いされ、姻戚関係まで構築しながら、家康は徳川家への「完全委譲」をやってのけたのです。

豊臣家からすれば、話が違う!

しかし、秀吉亡き今、時代は完全に徳川家へと向かっていました。

家康は駿河(現・静岡県 中東部)「大御所」として実権を握りつつ、簡単に徳川家の世襲制を世に知らしめた徳川家康。豊臣家に政権を返上せんと、下克上を発したのです。

歴史には「もしも」は当てはまりませんが、

もし、豊臣秀頼が徳川家康を父と呼んでいたならば。
もし、豊臣方が徳川家の世襲制をこらえて受け止めていたならば。
そして、豊臣家の「再興」ではなく、「存続」だけを考えていたならば。

豊臣一族は、滅亡しなかったのではないでしょう?
意外と秀吉のアドバイスが一番正しかったのかもしれませんね?

 

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天下分目の決戦『大阪の陣』

それでは、天下分け目の決戦「大坂の陣」とはどのような戦いだったのでしょうか。大坂の陣とはどのようなものなのか理解してみましょう。

大坂の陣とは、1614年の11~12月に行われた「大坂冬の陣」と、翌1615年の4~5月に行われた「大坂夏の陣」という大阪城の周辺を舞台に行われた2つの戦いです。

この大坂の陣では徳川VS豊臣本家が戦い、家康が勝利したことで、豊臣本家は滅亡することになりました。また、徳川家を頂点とする長い安定した政権が確立することになります。

「大阪の陣」開戦のきっかけ

京都市東山区にある「方広寺」。
この寺に問題の梵鐘が、今も存在しています。重さ64トンもの大きさを誇る鐘。

一見すると、ごく普通のただの「鐘」であるが、よく観察すると、鐘の側面には小さな文字があります。この鐘には銘文が彫ってあるのです。

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)とは、この銘文が発端となります。家康は釣り鐘に刻まれた「国家安康・君主豊楽」という文字に、なんくせをつけた事件です。

徳川家はこの8文字の言葉が「家康」の2文字を分割しているように見えることから、「豊臣家の繁栄を願い徳川家に災いを招く呪いをかけている」と追及を行いました。

この事件をきっかけに、豊臣家と徳川家の間には決定的な亀裂が入り、開戦のきっかけとなったのです。

大阪冬の陣

大坂冬の陣は、1614年11月19日の木津川口の砦での徳川軍と豊臣軍の衝突をきっかけに始まりました。

木津川口の戦い

幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、徳川家康から浅野長晟(あさのながあきら)、池田忠雄(いけだただかつ)と共に木津川口を攻略するように命じられていましたが、抜け駆けして攻撃を行いました。

その結果、砦は陥落しましたが、遅れた浅野の軍勢からは多数の溺死者が出てしまいました。

鴫野の戦い

豊臣軍は鴫野村に柵を設置して守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じました。

そこで上杉景勝(うえすぎかげかつ)が攻撃を行い柵を占拠し、さらに反撃してきた豊臣軍を水原親憲(すいばらちかのり)や安田能元(やすだよしもと)が撃退しました。

今福の戦い

豊臣軍は今福村に堀切と柵を設置して守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じました。

そこで佐竹義宣(さたけよしのぶ)が攻撃を行って柵を占拠しましたが、救援の後藤基次(ごとうもとつぐ)に反撃を受けたため、対岸にいた上杉景勝などが銃撃によって豊臣軍を撃退。

博労淵の戦い

博労淵の砦を攻撃するために家康は仕寄を築かせましたが、それよりも先に攻略しようと蜂須賀至鎮は萩の刈り取りを口実に攻略を思案、しかし家康が石川忠総(いしかわただふさ)へ萩の刈り取りを命じたため、蜂須賀は夜中の内に木津川口に仕寄を構築し、夜明けの石川勢の攻撃と共に砦を陥落させました。

野田・福島の戦い

豊臣軍は天満川と木津川の合流点に水軍を停泊させ、船倉を築いて守を固めます。そこで徳川軍との小競り合いが発生していましたが、九鬼守隆(くきもりたか)などが急襲したため、怖気づいた守備兵は逃げてしまいました。

大坂冬の陣では、講和によって一応の決着が行われましたが、両家は次の戦いへの準備を進めていました。

大阪夏の陣

 

郡山城の戦い

家康の司令を受けて郡山城に入城していた筒井定慶らに、豊臣家は合力を求めました。しかし筒井氏がこれを断ったため、豊臣方は郡山城へ進軍し、兵力を見誤った筒井定慶が撤収したことで郡山城は落とされました。

樫井の戦い

豊臣軍は和歌山城の浅野長晟への攻撃のため、大野治房(おおのはるふさ)を主将に出陣させます。

樫井での戦いは激戦となります。大野治房は扇動していた一揆勢ともに攻略を試みますが、先鋒を争った塙直之(ばんなおゆき)、淡輪重政(たんのわしげまさ)らが討死したため大阪城に引き返しました。

道明寺の戦い

寄せ集めだった豊臣軍は連携が取れず、後藤基次が討死し、次に到着した明石全登、薄田兼相らも敗走し、薄田兼相が討死。

また、真田信繁(さなだのぶしげ)や毛利勝永(もうりかつなが)が遅れて到着し、真田隊は伊達隊の進軍を押し止めましたが、豊臣は八尾・若江での敗戦したため、残兵を回収して後退しました。

八尾・若江の戦い

道明寺の戦いと同日に行われた八尾・若江の戦いでは、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)隊が徳川本軍の藤堂高虎隊に奇襲をしましたが、追撃を受け壊滅しました。また、木村重成(きむらしげなり)も徳川本軍の井伊直孝隊と交戦の末、討死しました。

 

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大阪城決戦

それでは、この最終章で家康が、豊臣家を滅ぼした作戦をみていきましょう。

大阪城攻略 その1 堀を埋める

大阪冬の陣でも講和の条件に、「 臨時につくられた ほり 堀や やぐら 矢倉は、徳川軍が取りこわす」という一文がありましたが、徳川軍は城の外堀をかってにうめ立ててしまいました。そのため、大阪城は内堀しかない、はだか同然の城になってしまいました。

家康はさらに、豊臣軍が臨時にやとったを全員を追放するように命令しました。これに怒った豊臣軍が侍を増やすと、家康は1615年4月に、ふたたび 大阪城攻撃を始めました。

豊臣軍は、真田幸村が、2度も家康の本陣を攻めくずすなど善戦しましたが、結局は敗れて、大阪城は火につつまれました。秀頼と淀は自害し、豊臣一族が滅びました。徳川秀頼の妻・千姫(徳川秀忠の娘)は、火の中から救い出されました。

 

大阪城の秘密:地下に眠る豊臣大阪城

大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに大阪城はすべて焼失してしまいました。江戸時代に入った元和6年(1620年)、徳川幕府は大阪城の再建にのり出します。10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなりました。

その再建された大阪城は徳川幕府により豊臣大坂城を覆い隠すように徳川大坂城が築かれて以来、今も地下に眠り続けています。

大阪城決戦の隠れ人物 真田信之

その人物とは、豊臣軍にいた真田幸村の兄弟の「真田信之」です。

真田信之は真田昌幸を父に幸村を弟にもつ武将として知られています。謀将として戦国時代を生き抜いた父と、大坂の陣で「天下一の兵(つわもの)」と呼ばれた弟があまりにも知られすぎていて、ちょっと影が薄い印象の信之。

1582年 上田合戦、父・昌幸は小規模戦闘の天才でした。2千程度の真田軍は徳川軍をさんざんに打ち破ります。

このとき昌幸の右腕として活躍したのが信之です。上田城にいる昌幸の本隊と戸石城にいる信之の支隊があうんの呼吸で動き、徳川軍を翻弄しました。

上田合戦で昌幸の実力を思い知らされた家康は真田家を取り込むべく婚姻関係を結ぼうとします。

 

真田家生き残りの戦略~兄は徳川、弟は豊臣

 

昌幸は豊臣秀吉に臣従し、信繁を秀吉に出仕させる一方、真田信之は、徳川家康の配下となり徳川秀忠隊に組みこまれました。

徳川家、豊臣家のどちらが勝っても真田家は残るという昌幸の戦略であったといわれています。

しかし、大坂冬の陣、翌年の夏の陣に信之は出陣していません。代わりに長男の信吉と次男の信政を参陣させています。病気が理由とのことですが、弟・幸村と戦うことを避けたのかもしれません。

家康が勝利したことにより天下の覇権を握りました。家康に味方した信之は上田・沼田の領主となりました。

 

徳川家康 天下統一の鍵を握った戦国武将 藤堂高虎

実は家康の家臣に天下統一の鍵を握った戦国時代がいたのです。

戦国時代、己の実力だけで大名に成り上がった男がいました。その名は「藤堂高虎」です。身長190センチ、体重は100キロもあったと伝えられています。

家康から絶大なる信頼を受けていた高虎、彼はどんな人物だったでしょう?

「藤堂高虎」は、1556年(弘治2年)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)犬上郡藤堂村で生まれました。

生涯戦に身を置いたため、身体中に隙間なく傷があり、手足の指も何本かちぎれ、爪のない指も数本あったことから、藤堂高虎の遺体を清めた者が驚いたという逸話があります。

そんな藤堂高虎が最初に仕えたのが、北近江の大名「浅井長政」(あざいながまさ)。浅井長政のもとでは足軽として働き、「姉川の戦い」などで武功を上げますが、1573年(天正元年)に浅井家が滅亡。

その後は旧浅井家臣の間を渡り歩き、「織田信長」の甥「織田信澄」(おだのぶずみ)にも仕えますが、気質が合わなかったのか、長続きしませんでした。

徳川家康を支えた藤堂高虎

高虎は、豊臣秀吉のもとでも武功を挙げて出世しますが、豊臣秀吉の死後または生前に、「徳川家康」に接近します。「関ヶ原の戦い」では、徳川軍に付いて西軍諸将の東軍への寝返り工作を行なうなど大活躍しました。

大阪の陣では、豊臣包囲網を築きます。

大阪城からの攻撃に備えるため、伊賀上野城を鉄壁の要塞に再建し、丹波篠山に篠山城を建築します。他に姫路城、彦根城など大阪城を囲むように家康は自軍の城を建築して行ったのです。

 

幾度も主君を変えた藤堂高虎にとって、最後は徳川家康に使えたのです。高虎は、豊臣方との最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川軍に付きます。豊臣家と敵対したために不忠義だとの見方もありますが、高虎自身の行動から見るに、主君はあくまで豊臣秀長や豊臣秀保であり、豊臣家ではなかったのです。つまり、高虎にとって大切なのは「人」であり、「家」ではなかったのです。

高虎の心遣いを家康はとても喜び、感心したと言います。高虎は、家康の信頼を勝ち得ることに成功します。

高虎に家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と言い遺し、徳川家康を奉る日光東照宮には、徳川家康、藤堂高虎、天海僧正の3人の像が奉られています。

 

まとめ

大坂の陣は徳川家康が豊臣家を滅ぼすためになんくせを付けたことをきっかけに始まり、大坂の陣で敗れた豊臣家は滅亡することになりました。

そして時代は豊臣家から徳川家の時代へと変わり、長く続く太平の世となったのです。

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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