
メキシコと日本の友好が400年も続いているそうです

江戸時代初期にこの近くで当時スペイン領だった
メキシコの船が漂着し、それを救助したことから
メキシコ、スペインとの交流が生まれたとのことらしい・・・

「でも400年前にどうやってメキシコと
日本の友好が始まったの?」
こういった疑問に答えます。
徳川家康も認めた、日墨友情ストーリー
「日本とメキシコが400年も前から交流していた」という話を聞くと、
多くの人は驚くかもしれません。しかし、その友情の起点は、
徳川家康が治めていた江戸時代初期に遡ります。
この記事では、400年以上続く日本とメキシコの深い友好の歴史を、
遭難事件、女性たちの勇気、そして条約締結という3つのエピソードを通して紹介します。
・メキシコ大統領のお礼
・海女さんの大活躍
・日本初の対等条約
始まりは1609年、御宿での奇跡
江戸時代の慶長14年(1609年)、フィリピン・マニラから
メキシコ・アカプルコに向かっていたスペイン船「サン・フランシスコ号」が、
台風の影響で日本の房総半島・御宿(千葉県)に漂着・座礁しました。
乗っていたのは、当時ルソン総督を務めたドン・ロドリゴやその部下たち373名。ス
ペイン人である彼らの多くは、沈没寸前の船から命からがら逃れました。
そして、ここで起きたのが“御宿の奇跡”です。
命を懸けた海女たちの救出劇
遭難した船員たちを命がけで救助したのは、御宿の海女たちでした。
彼女たちは荒波の中を何度も往復し、異国の人々を背負って海を泳ぎ、
体温で温め、命を繋ぎました。
助けられた人々は「生きててよかった」と涙し、村人たちも
「よかった、よかった」と抱き合ったといいます。
女性たちは自らの綿入りの着物を与え、米や野菜などの食糧も惜しみなく提供しました。
この救出劇で317名が命を取り留めました。海女たちと村人たちの人道的行為は、
まさに「日本人の心」を体現したものでした。
徳川家康との出会いと“おもてなし外交”
その後、ロドリゴ一行は江戸幕府の命により江戸(現・東京)に招かれ、
2代将軍・徳川秀忠に謁見。そして、駿府(静岡)では
大御所・徳川家康とも面会を果たします。
この時、外交顧問であったイギリス人・**ウィリアム・アダムス(三浦按針)**
が指導して、日本初の西洋式帆船が建造されました。
この120トンの船は、ロドリゴたちへの贈り物としてメキシコへの帰国に使われ、
翌年、彼らは無事に帰国。
この出来事をきっかけに、日本とスペイン領(当時)の
メキシコとの交流が始まりました。
オスマン帝国(トルコ共和国)の歴史、軍艦エルトゥールル号の奇跡は?
時を越えて訪れた“感謝の大統領
それから369年後の昭和53年(1978年)、
メキシコ大統領ホセ・ロペス・ポルティーヨ氏が来日。
感謝の気持ちを直接伝えるために、御宿の地を訪れました。
「私たちの祖先の命を助けてくれた、日本の名もなき
人々の勇気と人間性に敬意を表します」
と、大統領は涙ながらに謝辞を述べたのです。
これは単なる外交行為ではなく、深い歴史と感情に基づいた友情の証でした。
メキシコが日本と結んだ“対等条約”
明治時代、日本政府は欧米列強との不平等条約に悩まされていました。
そんな時、救援の恩を忘れなかったメキシコが、
日本と対等な立場で**「日墨修好通商条約」**を結びます。
この条約は明治21年(1888年)、アメリカで調印されました。
日本側の代表は、坂本龍馬の志を受け継いだ外交官陸奥宗光。
メキシコはアジア以外で初めて日本と対等条約を結んだ国となり、
日本の国際的な地位向上に大きく貢献しました。
おわりに|400年の友情が今も続く理由
メキシコと日本の友情は、偶然の遭難事故から始まりました。
しかし、それを「絆」に変えたのは、命を助けた村人の行動と、
助けられた側がその恩を忘れずに感謝を続けた心です。
このストーリーは、現代の私たちにも
「人と人との関係の本質」を教えてくれます。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
関連記事
コメント