125年前に起きたトルコの軍艦「エルトゥールル号」の遭難事故を、多くの日本人は忘れています。
トルコがとても親日的な理由の1つには、この事故がきっかけらしいよ。この物語をもっと詳しく知りたい!
こんな疑問にお答えします。
オスマン帝国(トルコ共和国)の歴史、軍艦エルトゥールル号の奇跡
日本とトルコの絆をつないだエルトゥールル号物語
イラン・イラク戦争の際、48時間後に迫った攻撃。取り残された日本人215名。そのとき、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員がイランを脱出。
今回の記事は、1890年に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる、絆のものがたりを紹介します。
トルコは親日国
1890年に起きたトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事故から、2020年は日本とトルコの友好130周年となりました。
ほとんどの日本人は知らない人が多いと思います。そのスタートに、実は日本人の「大和心」が大いに関係していました。
大半の日本人が、すでに忘れているにもかかわらず、遠い異国の地、トルコの人々は今も、そのときのことを忘れていないといいます。
明治23年(1890年)9月6日の夜半、一人のトルコ人が血を流しながら、現在の和歌山県東牟婁郡串本町の、串本港沖に浮かぶ大島の樫野埼灯台に命からがらたどり着きました。
トルコの軍艦は帰航の途中、猛烈な台風のために岩礁に激突、蒸気機関が爆発し二つに割れ沈没した。
言葉は通じなかったが、どうやら暴風雨の中で船が座礁し、沈没したらしい・・・
のちにこの船は、当時のオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号(2,344排水トン)と知ります。この時、六百人を超える人々が乗船していました。
この軍艦は、日本の皇族・小松宮彰仁親王がトルコを親善訪問した答礼として、前年に皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世の命により、使節オスマン=パシャを乗せて派遣されたものでありました。トルコ使節団の初来日・・・大惨事はその帰国途中で発生しました。
トルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇
このとき、大島の人々はすぐさま島をあげて、不眠不休の救出活動を開始しました。
生存者の救護、行方不明者の捜索・・・島の男たちは、ケガ人の血を海水で洗い、包帯で傷をふさぎ、痛さに泣きわめくトルコの人たちを背負って、約60メートルの断崖をよじ登り、無我夢中の救出作業を行いました。
助け出されたトルコ人は、69名。救助の甲斐なく亡くなった人は587名を数えたといいます。
この惨事は、日本中に新聞のニュースとして知らされましたが、これを知った日本人はみんな、わがことのように、トルコの人々の痛ましさに涙しました。
明治政府はすぐさま、軍艦「八重山」を急行させ、亡くなった人々の葬儀と埋葬を行い、同年10月には、生存者を無事帰国させるべく、彼らを軍艦「比叡」「金剛」でトルコへ運びました。
2隻には司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で有名な秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船していた。2隻が無事イスタンブールに入港したのは1891年1月で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎した。
日本の無名の青年=山田寅次郎
このとき、一人の無名の日本人青年が、東京でこの惨事を知りました。
「はるばる海を越えて、国交のない日本に訪れながら、亡くなったのはあまりにも気の毒だ。なんとか遺族を慰められないものか?」
24歳の青年は、フランス語と英語が少しでき、義援金集めに奔走しわずかな期間で、当時のお金で5千円を集めることができました。(現在の価値から3千万円相当)
青年は、この義援金を外務大臣の青木周蔵に届けました。すると青木は「君がトルコへ持っていけ」といいました。政府の応援を得た青年は、明治25年1月に横浜港を出航、スエズ運河を北へ、エジプトの港=ポートサイドを経て、帝都イスタンブールへ到着しました。
このとき青年は、義援金とは別に、家伝の明珍の兜と甲冑、陣太刀を、個人の意思で皇帝に献上しました。
日本の無名の青年に皇帝は言いました。「わが帝国の陸軍と海軍の士官に、日本語を教えてもらえにか」代わりに、あなたにはトルコ語を学んでほしい、と語りかけました。
無名の日本青年=山田寅次郎(1866〜1957)は、4年間トルコに滞在し、その後も日本との民間外交にその生涯をおくっていました。
日本人が示した献身的な救助、支援活動は、いつしかトルコ人の人々の中に、多大な親日感情を育てることにつながりました。
トルコ人は、「中央アジアから西に向かったのがトルコ人で、東に進んだのが日本人だろう」と笑っていうようになったそうです。
日本とトルコは、第二次世界大戦により一時期、国交を断絶したこともありましたが、戦後もトルコの人々の日本人に向けるまなざしは暖かかったのです。
トルコ、日本への恩返し
昭和60年(1985年)、イラン・イラク戦争が勃発しました。その最中、テヘランを中心にイランには、215名の日本人が滞在していました。空襲が予告され、各国の航空会社は自国民を優先に乗せて、次々へとテヘランを飛び立って行きました。
ところがこの時、日本では法律上、自衛隊が海外派遣を許されておらず、日本航空は帰りの安全が保証できないといって、救援機を出すこと自体を拒絶しました。
そこへ、2機の飛行機が舞い降りてきました。空襲直前の、おののく日本人を乗せて、2機はイスタンブールへと飛びました。それはトルコからの特別機でした。
トルコはの人々はこの時になっても、かつて明治23年に受けた日本人への恩を忘れていなかったのです。在留邦人たちの感謝の言葉に対して、トルコ政府ははっきりと答えました。
「私たちは、95年前の日本人の恩を忘れていません」
まとめ
トルコ国民に直ちに伝えられ、今でも時代を超えて語り継がれている。この歴史的な“友情と絆”の物語が、2015年12月に日本・トルコ合作映画『海難1890』として公開されています。
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