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絶倫【ゼツリン】伝説を持つ男は、江戸幕府12代将軍 徳川家慶だった!

絶倫【ゼツリン】伝説を持つ男は、江戸幕府12代将軍 徳川家慶だった!生活
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江戸幕府歴代の将軍の中で、伝説の将軍と言われる人物がいます・・・
その人物は絶倫(ゼツリン)将軍と言われた12代将軍の徳川家慶なのです。

 

どうして伝説の絶倫(ゼツリン)将軍なの?

 

こういった疑問に答えます。

 

 

結論:正室の他に、七人の側室と交わり25人の子供を出産させたのです。

徳川将軍の家慶は60歳になっても子供を産ませていた!

 

今回の記事では、徳川将軍の家慶の絶倫(ゼツリン )の伝説と家慶に玉の輿した女性の話を紹介します。

 

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絶倫(ゼツリン)将軍 徳川家慶

江戸幕府の12代将軍の徳川家慶、正室喬子(たかこ)の他に、七人の側室と交わり25人の子供を出産させたのは、歴代の将軍の中でも、父 徳川家斉に匹敵するほどの生殖力旺盛な人物でした。

計55人の子供をもうけ幕府財政難の一因を作った父家斉に比べれば、数こそ劣りますが、家斉が最後に子を産ませたのは55歳の時。

それに対して家慶は60歳になっても男子を出産させています。
その絶倫ぶりは「親に恥じないのみか、誰に対しても遜色はなかろう」と三田村鳶魚も変な褒め方をしています。

ちなみに最後の将軍 徳川慶喜の父、水戸の徳川斉昭も劣らず精力的でした。

おのずと家慶時代の大奥は世子(次期将軍)として西丸にいたころから、活況をようしていました。
大奥の御年寄(老女)や御客応対(おきゃくあしらい)たちも、将軍の意に適う新しい女性の物色に余念がなかったようです。

 

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絶倫将軍の徳川家慶の側室選び

お姫様は美しい

将軍付きの御中﨟(おちゅうろう)の新規採用の情報が伝わると、旗本の娘、他若い女性が毎日のように大奥にお目通え(面接)に訪れます。

御年寄は、その対応で大忙しになるのです。
お目見えといっても、御中﨟を目指す女性たちが面と向かうのは、御年寄から大奥幹部であり、将軍や世子とのお目見えが実現するわけではありません。

とはいえ、将軍(御上)の好みに合うことが第一条件ですので、将軍(あるいは世子)も、屏風などの裏に隠れて応募の女性たちを観察していたようです。

御中﨟(おちゅうろう)は、江戸時代の大奥の役職の1つ。定員は8名とされる。将軍、もしくは御台所の身辺を世話する。大奥女中の中から家格や容姿の良い者が、御年寄などの推挙により選ばれた。

将軍は主に「将軍付き御中﨟」の中から側室を選んだ。将軍付き御中﨟は最初からみな側室候補生であった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

さて、家慶がまだ世子だった文政5年(1822)のことと思われます。三人の応募者がお目見えに訪れるはずたっだのですが、どうしたわけか一人だけ来ません。

家慶がどんな美女がやって来るか楽しみに待っているのに、まさか一人は棄権になりますと言うわけにはいかず、御年寄ほか大奥幹部は困っていました。

大奥の女たちはこの難局をどう対処したのでしょう?

家慶の弟の千三郎に仕える女中の浜尾の部屋に、たまたま同人の妹が泊まりに来ていました。
浜尾の妹は愛らしい容貌の持つ主だったのでしょう、大奥のある女中が浜尾に事情を話し、お願いをしたそうです。

浜尾はまた、妹は泊まりに来ただけなので、衣服も装身具もお目見えに出られるような物は用意していませんと言いましたが、その点についても、別の女中から万事私が不具合のないようにしますと説得され、浜尾の妹は、側室候補者の面接試験を受けることになったのです。

 

代理受験、誰もが採用されないと思っていたのに・・・。

隙間から面接の様子をうかがっていた家慶はすっかり浜尾の妹が気に入りました。
「あの女を抱へ申せ」の一言で、彼女はそのまま御殿に留まり召抱えになったというです。

 

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徳川家慶への玉の輿

浜尾の妹は、文政5年(1822)に西丸御次として大奥に採用され、翌6年に御中﨟に昇進します。
名を於美津の方と称し、その翌年に男子を出産しています。

家慶の男子(竹千代、喜千代)がいずれも幼くして亡くなったため、於美津の方の子は若君として育てられ、30年後の嘉永6年(1853)に、13代将軍に就任しました。

その将軍とは、徳川家定です。

こうして於美津は将軍の御腹様(生母)という揺るぎない地位を手に入れたのでした。

黒船の来航と徳川家慶突然の死

1853年(嘉永6年)、浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に「東インド艦隊」提督「ペリー」率いる黒船が来航します。

4隻の戦艦を率いて日本近海に出現したペリーは、日本に開国を迫るために、威嚇用の砲撃を実行。

アメリカの武力による恫喝に狼狽した幕府はついにペリーの上陸を許可し、アメリカ大統領からの開国を促す旨の親書を受け取ったのです。

ペリーが上陸した当時、徳川家慶は病床にありました。そのため、黒船の来航に対応したのは老中首座の阿部正弘を中心とする幕閣達。阿部正弘は開国に関して、将軍が病気のために決定できないとし、1年間の猶予を貰いました。

ペリーは1年後に再来日をする旨を告げ日本を去りましたが、幕閣達がペリーへの対策に追われている最中、徳川家慶は61歳で薨去。死因は熱中症による心不全であったのではないかとされています。

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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