昭和のコミックバンドは多くあったけど、
知っているのは「クレージーキャッツ」・・
ハナ肇さんの「クレージキャッツ」について知りたい!
そんな疑問にお答えします。
昭和時代を代表するコミックバンド「ハナ肇とクレージー・キャッツ」は
大ブレイクするも、ボーカルの植木等さんの人気が突出するという、
リーダーのハナ肇(はな はじめ)さんにとっては微妙な状態でしたが、
それでも、個々の活動がメインになってくると、ハナさんは、持ち味を発揮し人気者になられます。
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「クレージーキャッツ」のハナ肇のプロフィール
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ハナ肇さんは、1930年2月9日生まれ、
東京府北豊島郡長崎町(現・東京都豊島区)のご出身、
身長167センチ、
血液型はB型、
学歴は、
長崎第二国民学校
⇒工学院大学土木科中退
ちなみに、本名は、野々山定夫(ののやま さだお)ですが、
「クレージー・キャッツ」ハナ肇のメンバーに伝説の植木等が所属
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ハナさんは、少年時代、アルバイトをしながら進駐軍クラブでドラムを学ばれると、1946年、16歳の時、「刀根勝美楽団」に参加してドラムを担当。
その後、
1955年には「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成されます。
その後、コミカルな路線へと転向し、バンド名も「ハナ肇とクレージー・キャッツ」
と改名しました。
そして、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に所属されていた、
植木等さんや谷啓さんも呼び寄せ、中心メンバーに据えられたのでした。
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クレージーキャッツ 「シャボン玉ホリデー」で人気が爆発!
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そんな「ハナ肇とクレージー・キャッツ」は、その後、ジャズ喫茶で、音楽ギャグを披露して人気を博すと、
「おとなの漫画」(1959~1964)
「シャボン玉ホリデー」(1961~1972)
などのテレビ番組に出演し、人気が爆発!!
ハナ肇のコント「アッと驚くタメゴロー!」「銅像」
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「ハナ肇とクレージー・キャッツ」というグループ名を、「植木等とクレージーキャッツ」と間違われるほど、植木さんの人気がダントツで、内心穏やかでなかったにもかかわらず、表には出さず、リーダー役に徹していたハナさん。
徐々にバンドの活動よりも、個々の活動がメインになっていき、1969年から放送開始のコント番組「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」に単独出演、当時流行っていたヒッピー調のサイケデリックな衣装を身に包んで登場し、コントとコントの合間やCMの前後に叫んだ、
アッと驚くタメゴロー!
というギャグが瞬く間に大流行。
そして、毎年恒例の正月番組「新春かくし芸大会」では、銅像に扮すると、
微動だにしないハナさんのところに、他の出演者がやってきては、
一斗缶で銅像(ハナさん)を殴ったり、水やペンキをひっかけては大騒ぎをするという
「銅像コント」を披露し復活を遂げたのです。
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ハナ肇<植木等の人気
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しかし、1966年頃からは、「シャボン玉ホリデー」の人気が低迷。
事務所の方針で、バンドの中で人気が突出していた植木さんを独立させ、
1967年「植木等ショー」の放送が開始されます。
実は、の人気は低迷したものの、「ハナ肇とクレージーキャッツ」が主演した
3本の映画は、1966年度の邦画興行ベストテンに入っており、
植木さん目当てにファンが集ってくるとの目論見だったようです。
実際、植木さんの人気はすさまじく、地方公演では、「植木等とクレージーキャッツ」
と誤記されることもあったとか。
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少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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