秋になると、街のあちこちで目にする焼き芋。ほのかに甘く、体を芯から温めてくれる焼き芋は、サツマイモ(甘藷)を焼いてつくります。
サツマイモは日本の歴史と深く関わった食べ物です。
江戸時代に徳川吉宗が栽培を促進したことは、歴史の授業でも覚えさせられる有名な話ですね。
徳川吉宗って以前の記事で紹介した方だよね。徳川吉宗とサツマイモの関係を知りたい!
こういった疑問に答えます。
【秋が旬!】徳川吉宗が広めたサツマイモ!
サツマイモは、食卓にのぼることも多いですね。
天ぷらや煮物に、また、甘みをいかしてお菓子などにも使われます。
元々は中南米原産の野菜といわれ、江戸時代初めに中国から琉球に伝わったと言われています。
その後、薩摩をはじめ九州地方で生産されるようになり、地方によっては唐藷(からいも)・琉球藷(りゅうきゅういも)などとも呼ばれています。
江戸時代の中頃になると関東でも広く栽培されるようになり、天災などで米の収穫が激減した際には、米に代わり多くの人々の命を救ったのです。
このサツマイモ普及の裏には、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)の働きがあったのです。吉宗とサツマイモの間には一体、どのような関係があったのかを紹介します。
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徳川吉宗とサツマイモの関係は?
では、吉宗とサツマイモはどのように結びつくのでしょうか?
薩摩藩でサツマイモの栽培が始められた数十年後、1732年(享保17)年に発生した「享保の大飢饉」です。
吉宗がサツマイモに注目するきっかけとなったのがこの問題です。
この年、西日本の地域でウンカ(稲の害となる昆虫)が大発生し、加えて冷夏であったため、収穫のなくなった農村を中心に深刻な食糧難に陥ったのです。
この飢饉では、苦しんだ人は250万人、使者は1万人とも100万人とも言われています。
この緊急事態を解決しようと吉宗は、長崎出身の近臣・深見新兵衛に九州の飢饉の様子を尋ねました。
そこに江戸町奉行・大岡忠相が、かねてよりサツマイモを救荒作物にと研究していた儒学者・青木昆陽を吉宗に紹介しました。
お米に頼らない食糧体制の構築に奮闘していた吉宗に、昆陽は自著『蕃藷孝』を上程します。
『蕃藷孝』は『農政全書』(1639年、明の徐光啓著)をはじめとした中国の様々な書籍を引用し、救荒食としてのサツマイモについてわかりやすくまとめたものであったのです。
吉宗の時代にサツマイモは全国に広まりますが、元々は熱帯地方の植物。ある程度温暖な気候の下で育ちやすく、特に九州と四国とは相性が良かったようです。
サツマイモの知識
もう一度サツマイモについて学んでみましょう。
サツマイモの原産地はペルーと考えられています。
アメリカ大陸に渡ったポルトガル人かスペイン人によって東南アジアにもたらされ、アジアの食卓に定着しました。
日本にサツマイモがもたらされたのは中国経由です。17世紀初頭に琉球、18世紀初頭に薩摩に伝わったといわれています。
現在でも九州では、サツマイモのことは琉球芋や唐芋(からいも)と呼ばれています。
そのうえ、食物繊維やビタミンCなどの栄養価も高い植物で、長期保存が可能なのです。
風邪の予防や疲労回復にも効果があるそうです。当時江戸では米の常食化による脚気が流行していましたから、この辺りも勝敗を分けたかもしれませんね。
徳川吉宗はサツマイモ将軍
吉宗は、サツマイモの有用性を信じ、飢饉対策の柱として推進しました。
吉宗はまず、庶民にも読めるよう『蕃藷孝』を仮名混じり文に書き変えます。
サツマイモの栽培のポイントや食べ方、保存法などの要点をわかりやすくまとめさせ、薩摩より取り寄せた種芋と一緒に、伊豆七島などに配布したのです。
また、昆陽を中心に、江戸の小石川薬草園や下総の馬加(まくわり)村(現在の千葉県・幕張)でサツマイモの試作を開始しました。
そこで収穫した種芋を諸国に分け栽培させ、この繰り返しで、少しずつ栽培地域を拡大していったのです。
こうして、徐々に関東地方にサツマイモ栽培が定着し、のちの天明の大飢饉をはじめとする飢饉の度に多くの命を救うこととなりました。
現代では食卓のおかずやお菓子として、手軽に食べられるサツマイモだが、今後この秋の味覚を食する時には、偉大な先達の努力と功績を思い起こしてみてみるのも一興かもしれない。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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