スポンサーリンク

徳川家光の参勤交代政策は大名の力を封じ込めるため【約束された将軍地位】

教育
スポンサーリンク
ゆず子

江戸時代初期、徳川幕府がやった「参勤交代」について教えて欲しい!

こういった疑問に答えます。

TOM

「参勤交代」とは、徳川幕府がおこなった大名統制のことです。
全国の諸大名が交互に江戸へ参府して将軍に謁見し、一定の期間を過ぎれば領国へ戻るという制度なのです。

 

「参勤交代」を制度化した第3代将軍/徳川家光
「我は生まれながらの将軍である」

 

「我は生まれながらの将軍である」と言ったのは、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)。様々な政策を行ない、幕藩体制や幕府機構の確立に尽力しました。

今回の記事では、徳川家光が将軍となって行なった政策をご紹介します。これらの政策は200年以上続けられ、幕府の基本政策となりました。

結論:
1)祖父・徳川家康の裁定で将軍となる
2)臣従の儀礼を、参勤交代という制度化
3)鎖国体制を作り上げた

 

スポンサーリンク

生まれながらの将軍・徳川家光

 

徳川家光は、1604年(慶長9年)生まれ。2代将軍「徳川秀忠」(ひでただ)の次男として、江戸城・西の丸で誕生しました。

母は「浅井長政」の娘「江」(ごう)
徳川秀忠には、長男「長丸」(ちょうまる)がいましたが、すでに早世し、徳川家光は最初から嫡男として育てられました。

徳川家光の幼名は「竹千代」です。生まれてすぐに両親ではなく、乳母「福」(のちの春日局)によって育てられました。

これは、祖父の「徳川家康」の命令によるものです。

1606年(慶長11年)、徳川秀忠は3男「徳川忠長」(ただなが)が生まれます。徳川家光と違って、徳川忠長は母・江によって育てられることになりました。

健康で容姿もよく、利発。徳川秀忠や江は、自分達の手で育てている徳川忠長をとてもかわいがり、体が弱くおとなしい徳川家光よりも、利発で容姿端麗な徳川忠長の方が次期将軍にふさわしいのではないかと考えるようになったのです。

一方、徳川家光は両親からの愛情を感じることがなく、両親と距離を取るようになり、話をするときも遠慮しながら話すようになりました。
家臣達の間でも、徳川忠長が江に寵愛されているのをみて、次期将軍候補として徳川忠長に接近する者も現れ始め、徳川忠長が次期将軍になっても不思議ではないと考えるようになってきます。

関連記事:

 

徳川家光の乳母・福(春日局)の逆襲

この雰囲気を感じとり、徳川家光の将来に不安を感じたのが、徳川家光の乳母・福です。
福は、伊勢神宮に行くふりをして、駿府城にいる徳川家康に会いに行きました。

徳川家光を次期将軍にと直訴。その結果、徳川家康は徳川秀忠や江に徳川家光が次期将軍になることをしっかり伝え、徳川家光に対してそのように接するように話しました。

 

福は、徳川家光が次期将軍としてふさわしい人物になるように、愛情を一身に注ぎました。
両親からの愛情を感じたことが少なかった徳川家光も、福を本当の母のように慕います。
福が徳川家光を思う気持ちは、徳川家光が将軍になったあとも変わらずに続きます。

 

スポンサーリンク

徳川家光 3代将軍に就任

1623年(元和9年)、徳川家光は父・徳川秀忠にしたがって上洛し、征夷大将軍の辞令を受け、3代将軍に就任しました。

しかし、将軍になったあとも実権は父・徳川秀忠が持ち続けます。
祖父・徳川家康と父・徳川秀忠の関係がそうであったように、将軍である徳川家光よりも隠居して大御所である秀忠の方が、影響力や発言力などすべての点で上でした。

そのため、徳川秀忠が死去するまでは徳川家光は最高権力者ではなく、名ばかりの将軍で、積極的に政治にかかわることはしませんでした。

徳川家光が重要な幕府の基本政策を行なうのは、徳川秀忠の死去後となります。

スポンサーリンク

徳川家光の参勤交代の制度化、大名支配の強化

 

徳川家光は、江戸幕府による全国支配を盤石なものとするため、大名支配の強化を行ないました。
大名支配の強化は徳川家康・徳川秀忠のときから行なっていましたが、徳川家光はそれをさらに強化・発展させたのです。

参勤交代とは?

「参勤交代」とは、江戸時代に徳川幕府がおこなった大名統制のことです。
全国の諸大名が交互に江戸へ参府して将軍に謁見し、一定の期間を過ぎれば領国へ戻るという制度です。

ちなみに江戸へ向かうことを「参勤」、逆に領国に戻ることを「交代」といいました。いわば他の大名の参勤と交代するという意味になるでしょうか。

元来は諸大名が自主的に江戸へ参勤したことが始まりですが、3代将軍・徳川家光が出した「武家諸法度寛永令」によって、いよいよ諸大名に義務付けられます。

参勤交代の目的は、以下の3つです。

①国元と江戸の往復で大名に出費を強いることによって、財政を圧迫させ必要以上に力を付けさせないようにすること。

②嫡子を江戸に常住させることによって、江戸幕府に対して精神的な結びつきを持つようにさせること。

③大名が謀反を起こさないように、正室と嫡子を人質として出すこと。

参勤交代は原則として1年おきにおこなわれ、1年国元で過ごせば江戸へ参勤。
そして、江戸で1年経過すれば交代で国元へ戻ります。
ただし遠隔地にある藩の場合、それなりに配慮されていました。
海を隔てた対馬藩は3年に1度、北海道の松前藩などは5年に1度という長いスパンだったようです。

しかしながら関東地方にいる譜代大名が「江戸に近くで楽だ」というわけではありません。実際には半年に1度という短い期間で参勤交代が義務付けられていました。

 参勤交代を拒否するわけにはいきません。もし違反すれば苛酷な処罰が待っていました。
例えば福井藩主の松平忠直は病気を理由に江戸出府を断りますが、すぐさま改易されて豊後へ流罪となっています。

 

また、盛岡藩主だった南部重直も江戸への到着が10日遅れただけで、2年もの間、江戸で蟄居処分を受けました。

しかしながら、江戸が大きく繫栄したのは参勤交代のおかげだったという面もあります。
全国の半分にあたる大名が江戸で滞在するわけですから、その経済効果は非常に大きいものでしょう。こうして江戸は世界有数の経済都市となったのです。

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

関連記事

 

 

ブログランキング参加しています、応援お願いします。


にほんブログ村

コメント