徳川家康の家来の藤堂高虎は城を造るプロ、徳川天下統一の隠れの立役者

徳川家康の家来の藤堂高虎は城を造るプロ、徳川天下統一の隠れの立役者教育
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豊臣秀吉の豊臣家を滅ぼし天下統一を成し遂げた、徳川家康には隠れ武将が存在していたの?

 

こういった疑問に答えます。

 

徳川家康の家来の藤堂高虎は城を造るプロ、徳川天下統一の隠れの立役者

 

 

徳川家康の天下統一の鍵を握る謎の戦国武将がいた!彼が仕掛けた秘策とは?

今回の記事では、徳川家康の家来、影の功労者「藤堂高虎」についてまとめてみました。

 

この記事を読んでわかること

・天下分目の決戦『大阪の陣』の内容がわかります。

・藤堂高虎と徳川家康と豊臣秀吉の関係がわかります。

・藤堂高虎の自慢の名城「今治城」など城を築いた理由がわかります。

 

 

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天下分目の決戦『大阪の陣』

 

それではまず、徳川家康が天下統一への足がかりとした、天下分け目の決戦「大坂の陣」とはどのような戦いだったのでしょうか。大坂の陣とはどのようなものなのか理解してみましょう。

大坂の陣とは、1614年の11~12月に行われた「大坂冬の陣」と、翌1615年の4~5月に行われた「大坂夏の陣」という大阪城の周辺を舞台に行われた2つの戦いです。

この大坂の陣では徳川VS豊臣本家が戦い、家康が勝利したことで、豊臣本家は滅亡することになりました。また、徳川家を頂点とする長い安定した政権が確立することになります。

 

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藤堂高虎 徳川家康の天下統一の鍵を握った戦国武将

 

実は家康の家臣に天下統一の鍵を握った戦国時代がいたのです。

戦国時代、己の実力だけで大名に成り上がった男がいました。その名は「藤堂高虎」です。身長190センチ、体重は100キロもあったと伝えられています。

戦国時代の武将・藤堂高虎は築城の名手と謳われていました。

それでは、家康から絶大なる信頼を受けていた高虎、彼はどんな人物だったでしょう?

「藤堂高虎」は、1556年(弘治2年)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)犬上郡藤堂村で生まれました。

生涯戦に身を置いたため、身体中に隙間なく傷があり、手足の指も何本かちぎれ、爪のない指も数本あったことから、藤堂高虎の遺体を清めた者が驚いたという逸話があります。

そんな藤堂高虎が最初に仕えたのが、北近江の大名「浅井長政」(あざいながまさ)。浅井長政のもとでは足軽として働き、「姉川の戦い」などで武功を上げますが、1573年(天正元年)に浅井家が滅亡。

その後は旧浅井家臣の間を渡り歩き、「織田信長」の甥「織田信澄」(おだのぶずみ)にも仕えますが、気質が合わなかったのか、長続きしませんでした。

 

 

徳川家康を支えた藤堂高虎

 

 

 

高虎は、豊臣秀吉のもとでも武功を挙げて出世しますが、豊臣秀吉の死後または生前に、「徳川家康」に接近します。「関ヶ原の戦い」では、徳川軍に付いて西軍諸将の東軍への寝返り工作を行なうなど大活躍しました。

大阪の陣では、豊臣包囲網を築きます。

そんな藤堂高虎が関ケ原の合戦後に築城を始めたのが「今治城」です。
本城が有する鉄御門とその周辺の多門櫓は、虎口として最も堅固な形をしており、その後の日本の虎口のモデルとなっています。

では、そうした堅牢・堅固な「今治城」とは?

 

藤堂高虎の自慢の名城「今治城」とは?

秘密に動く隠密のような存在

 

関ヶ原の合戦後、伊予半国(現・愛媛県)の20万石を与えられた藤堂高虎が、慶長7年(1602)に築城を始めました。
完成は同13年と考えられており、三重の堀を瀬戸内海につなげて海水を引き入れ、海城とした。海から物資を運び入れるための舟入も設け、その規模は国内最大級です。

海とつながった舟入は、ほぼ方形で、さらに城壁で厳重に囲まれた内側の舟入へと入ることができた。そこには高虎の軍船が係留されていた、いわば水軍基地でもあったのです。

 

 

篠山城

 

徳川家康が大坂の豊臣家を抑えるために1609年、現在の兵庫県篠山市にあたる篠山盆地に築城したのが篠山城です。当時の天下普請により15の国の大名たちが集められ、約6カ月というスピードで完成したと言われています。

 

伊賀上野城

 

三重県伊賀市にある伊賀上野城は、平安時代に平清盛が建立した平楽寺の跡地に、秀吉の家臣・筒井定次が築城したと伝えられる城です。徳川家康が政権を握ると、大坂城を押さえておくための拠点として、大規模な改修が必要となり、藤堂高虎に白羽の矢が立てられます。

大阪城からの攻撃に備えるため、伊賀上野城を鉄壁の要塞に再建し、丹波篠山に篠山城を建築します。他に姫路城、彦根城など大阪城を囲むように家康は自軍の城を建築して行ったのです。

江戸城

藤堂高虎はこのうち、城の外郭石壁と石垣部分を担当したと言われており、これは高虎が石垣を高く積み上げる技術と、堀の設計に長けていたためとも言われています。さらに、天守台や石塁の修築にも尽力したとされています。

 

まとめ

幾度も主君を変えた藤堂高虎にとって、最後は徳川家康に使えたのです。高虎は、豊臣方との最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川軍に付きます。豊臣家と敵対したために不忠義だとの見方もありますが、高虎自身の行動から見るに、主君はあくまで豊臣秀長や豊臣秀保であり、豊臣家ではなかったのです。つまり、高虎にとって大切なのは「人」であり、「家」ではなかったのです。

高虎の心遣いを家康はとても喜び、感心したと言います。高虎は、家康の信頼を勝ち得ることに成功します。

高虎に家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と言い遺し、徳川家康を奉る日光東照宮には、徳川家康、藤堂高虎、天海僧正の3人の像が奉られています。

 

2015年に亡くなった作家・火坂雅志氏の人気小説、「虎の城」で注目度が高まった武将・藤堂高虎。

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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