徳川8代将軍の徳川吉宗は「暴れん坊将軍」だったけど、
祖先の徳川家康と違って、科学的な知見を持っていたのをご存知ですか?
徳川吉宗は「天文将軍」と呼ばれていたらしいけど、実際にはどういう人物だったの?
こういった疑問に答えます。
天文台をつくれ!「暴れん坊将軍・徳川吉宗」が
天体望遠鏡で宇宙を観測した。
ところで江戸時代の江戸城にかつて天文台があったことをご存知だろうか。
その天文台は徳川家康が江戸幕府を始めた当初からあったわけではなく、18世紀半ばに建てられたとのことです。
天文台だけでなく日本初の天体望遠鏡も作られ、それは天文学に非常に興味を抱いていた徳川将軍が命じて作らしたのです。
吉宗は太陽や雨量の測量を行なっており、さらに動物園や薬学にも精通しているなど、「科学者」の一面もあったとされています。
「政治家」「天文学者」「科学者」の顔を持つ徳川将軍といえば徳川吉宗といっても過言ではないのです。
今回の記事では、時代劇で俳優の松平健が演じる暴れん坊将軍のイメージが強いのですが、徳川吉宗について紹介します。
・徳川8代将軍の徳川吉宗の人物像がわかります。
徳川吉宗は本家徳川ではない将軍だった
「徳川家」の当主で、将軍となった人物の名前には、「家」の1文字が入っていることが常識となっっています。
初代将軍「徳川家康」から当主に受け継がれてきた1文字ですが、「徳川吉宗」(とくがわよしむね)にはありません。
徳川吉宗は、1684年(貞享元年)に「紀州藩」(現・和歌山県・三重県南部)の2代藩主「徳川光貞」(とくがわみつさだ)の四男として誕生。
徳川家康の血を受け継いでいるものの、「徳川宗家」(とくがわそうけ)となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の男系の出身ではなく、「親藩」(しんぱん:徳川家の男系男子が務める藩のひとつ)である「徳川御三家」の「紀州徳川家」に生まれました。
徳川御三家とは、徳川将軍家に次ぐ地位を所有していた親藩では、最高位にあたる3家のことです。
徳川宗家の血筋が絶えた場合、徳川御三家から将軍を輩出することになっており、選定される順番は「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)、紀州徳川家、「水戸徳川家」(みととくがわけ)となっています。
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徳川吉宗は本当に「暴れん坊将軍」だったのか?
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テレビ朝日系列で放送され好評だったドラマ『暴れん坊将軍』は、名君の誉れ高い八代将軍・徳川吉宗の活躍を描いてる時代劇ですね。
大奥のリストラ敢行
吉宗は改革を行ったことでも知られていますが、特に幕府の費用を使っていた場所こそが大奥だったのです。
吉宗はそこで大奥の中から美女50人を選ぶという驚くべき策に出たのです。
当時の吉宗は正室を亡くし独身だったためにこの命令は大奥の女性らにとって次期将軍の側室選びと思われており、大奥の人たちは我こそが美人と必死にとりいれられようとしたのです。
ところが吉宗は、「美人はほかに嫁ぎ先がすぐに決まるだろうから暇をとらす」と言ってリストラ。
吉宗は美人であれば大奥ではなくても幸せな生涯を送れるだろうと全員解雇という切れ者の吉宗だからこそできる思い切った行動に出たのです。
ちなみに、大奥には付き人制度もありますのでこの50人以外にもその女性に仕えていた付き人も全員解雇となり総勢1000人から2000人が解雇されたんだそうです。
農業政策の実施
また、享保の改革の最大の特徴は農業を重視した政策を打ち出しましす。
吉宗はこの享保の改革によって米公方と呼ばれることになるのです。
吉宗はまず定免法という法律を出して、凶作の時でも、豊作の時でも一定の量の年貢を納めることを決め、税収の安定化を図りました。
また上米令による幕府財政収入の安定化を行い新田開発の推進を進めて税収の増加。
また、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映を行い、その目安箱の要望にあった診療所の開設を行い小石川養生所を設置。
さらに飢饉対策に青木昆陽などの力を使ってさつまいもの栽培を行ったりするなどの民衆の為の政治を行いました。
公事方御定書の制定
徳川吉宗の功績の一つに公事方御定書の制定があります。
元々武家に対する法律はあったのですが、裁判の基準を設けたのが彼が最初だったと言われているのです。
暴れん坊将軍ではない
徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊の徳田新之助に姿を変えて悪者を斬るといった物語ですよね。
ただ前半生の境遇があまり良くなかったり、裁判の改革を行ったりしていたのですが吉宗自身が悪人を退治したとされるエピソードは残っておりません。
徳川吉宗は天文将軍
幼馴染の二人の娘、明暗分けたふたすじの道
たがいに愛憎乗り越えてここに熱き友情が結ばれた
娘二人に幸あれとカシの大木に願う吉宗であった #暴れん坊将軍 pic.twitter.com/O5OCXuaJvN— あふろん@芝神明 (@A_furo1) August 18, 2022
徳川8代将軍の徳川吉宗は、当時様々な改革(享保の改革、目安箱の配置など)を行なっています。
また禁書令でキリスト教を中心とする西洋書籍の導入が禁じられていたのを、徳川吉宗は西洋天文学などの導入に力を入れるため禁書の緩和を行ないました。
そのおかげで国内での観測技術の向上に繋がった。
徳川吉宗は太陽や雨量の測量を行なっており、さらに動物園や薬学にも精通しているなど、「科学者」の一面もあったとされ、「政治家」「天文学者」「科学者」の顔を持ついわば2刀流の将軍だったのです。
暴れん坊将軍「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」再放送(゚∀゚)キタコレ!!
時代劇史上空前のスケール(?!)の映像を楽しみたい方は、明日(3/7)朝4時からテレ朝の録画をお忘れなく!! pic.twitter.com/etsT5TXd5B— きみー (@fab_gabrielis) March 6, 2019
1999年に放送されたもので、9シーズン目の第19話「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」というタイトルの回です。
吉宗が望遠鏡で天体観測していると、日に日に近づいて来る赤い彗星があります。
吉宗は、心配になり、長崎から天文学者を呼んで尋ねると、今夜、日野宿の外れに落ち、2里四方が被害にあうと言われます。
一方、江戸の町には、彗星が落ちて来るという噂が流れ始めます。
そして、彗星除けの蝋燭が流行り始めます。なんでも彗星が来る時にその蝋燭を点けると、災を免れるという事で、爆発的に売れ始めます。
しかし、本当は蝋燭でなく、爆薬が仕掛けられていました。
天狗党が、国家転覆を狙い、一斉に江戸の町を火の海にしようと暗躍していたのです。
結局、吉宗は、その天狗党との戦いに終始してしまい、何ら手が打たれる事なく彗星は落ちてしまいます。
ただ、日野の外れだったので被害は、ほぼありませんでしたという話です。それにしても凄い話を時代劇でやったのですね。
日本の天文学に革命をもたらし、動物園や薬学に詳しく、江戸城内に「天文台」や日本初の「天体望遠鏡」を建築し、自らも6年間にわたって太陽や雨量の観測を行っていたことが古い資料からわかっています。
天文台を作らせた目的はもう一つあります。それは暦の改善です。
当時の日本は独自の太陽太陰暦を使用しており、時刻のずれが生じていたのが課題点になっていたのです。
そこで西洋書籍の禁書を緩和し西洋天文学を暦に導入させて、日本国民に正確な時刻を知らせようとしていたのでした。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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