この記事独自の”これは欲しい”と思われる人材像を解説します。
誰もが魅せられる「坂本龍馬は誰が教育したのか?」「誰が英雄に作り上げたのか?」
こんな疑問にお答えします。
坂本龍馬を英雄にしたのは誰か?大久保一翁幕臣が思想を伝授した
幕末の英雄「坂本龍馬」の名を知らない人はいません。土佐の郷士でありながら広い視野を持ち、脱藩してまで徳川幕府の終焉を告げる「大政奉還」を実現させた男です。
この「大政奉還」は260年間も続いた古い政体を解体させた、途方もない出来事でした。新しい時代を創るため、この至業の事業を東奔西走して実現した龍馬は、まさに英雄中の英雄と言えるでしょう。
今回の記事は、坂本龍馬を英雄にした男 【大久保一翁】についてまとめました。
結論を先に書いてしまえば、龍馬の思想は、徳川幕府直参旗本・大久保一翁から授けられたものでした。
坂本龍馬を英雄にした大久保一翁とは誰?
大久保一翁は、5代将軍に近侍し、海防掛・目付から大目付を暦任した幕府の高級官僚でした。
同じ幕臣の勝海舟、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、長州藩の桂小五郎、そして坂本龍馬など幕末維新の多数の傑物が揃って期待し、大久保一翁が幕閣に登用されれば「討幕を止める」と一目置かれ尊敬されていました。
大久保一翁の最大の功績は、幕府の中心にいながらも、私心を捨て、広く意見を聞き、深く洞察して結論を出すということでした。
「大政奉還」「大小交議会」「国是(憲法)」といった策は、じつは大久保一翁の大局を見る目の広さと先見の明で、すでに思想として生み出されたものでした。
坂本龍馬の「船中八策」「大政奉還論」は、一翁の思想の実践でした。一翁の話を聞いた龍馬は手を打って喜び、「実現に死力を尽くす」と約束したのです。
これに感動した一翁は、龍馬の支援者となります。さらに「大政奉還後、徳川家は北海道の一大名となり、北辺の警備を兼ねる手もある。その前に有志と共に行動して、蝦夷の開拓の必要がある」と龍馬に伝えました。
このようなすべてを実行するために、東奔西走したのが、坂本龍馬なのです。
坂本龍馬を英雄にした大久保一翁の転機
大久保一翁に大転機をもたらしたのは、龍馬と同じでペリー艦隊の来航でした。1853年6月3日、マシュー・カルブレイス・ペリー提督の率いるアメリカ海軍インド艦隊が浦賀に来航しました。
世にいう「黒船騒動」が始まりました。黒船はその後東京湾に居座り、幕府に開国の圧力をかけました。老中首座の阿部正弘は、「悔しいが黒船に対抗する力は日本にはない」とアメリカ大統領の国書を受け取り、回答は翌年すると約束。それでペリー艦隊は、いったん日本を去りました。
阿部正弘は、海防掛のさらなる強化に乗り出しました。阿部はアメリカ大統領の国書を公開し、「ペリー祭来航への意見の建白」を広く全幕臣から大名、一般の有志にまで求めました。
年明け1854年1月16日、早くも開国の回答を求めて、再びペリー艦隊7隻が来航し、現在の横浜市金沢区沖に停泊しました。交渉は難航し、約2ヶ月幕府はペリーへの対応をのらりくらりとかわしながら延ばしたのでした。
1854年3月3日、日米和親条約を調印し、さらに5月22日、下田で日米和親条約付録協定をも調印し、下田と箱館の2港が開港されました。
一翁はその「黒船騒動」の中、「海防掛・目付」を命じられました。ときに一翁、38歳でした。
龍馬というとこの「黒船騒動」では、ちょうど剣術修行のために江戸で北辰一刀流千葉定吉の道場で修行中。また黒船警備の臨時御用をしています。
一翁の職務である「目付」は絶対的な権力を持っていました、たとえ老中・三奉行の重職であろうと「目付」の同意を得なければ事を決行することはできませんでした。「目付」の意見を無視すれば、ただちに目付は老中または将軍に抗議することはできました。
一翁が就任した海防掛は、阿部が組織したもので、幕府でも珍しい機関であったのです。海防掛の権限は大きく、漂流中にアメリカの捕鯨船の救助され、アメリカ本国で教育を受けて帰国したジョン万次郎は、中浜万二郎の名で幕臣になり、海防掛は万次郎からアメリカの事情を聞く機会もありました。
一翁はこの海防掛での経験が大局を眺め 鋭敏な判断をする政治家へと磨きをかけていったのです。
大久保一翁と勝海舟との出会い
勝海舟は「ペリー祭来航への意見の建白」で大胆な建白を提出しました。
「積極的にこちらから貿易して、その利益で協力な海軍を作れ。人材を登用して、旗本の困窮を救うために西洋化した軍隊にせよ。そのための大砲と火薬の工場を作れ。西洋学問の学校を作れ」という内容が、海防掛・目付の一翁の目に留まりました。
ときに、安政2年(1855年)1月、一翁39歳、海舟33歳の運命の出会いでした。
幕府から勝への辞令にはもう一つの命令があり、「1月23日に出発する海防掛・目付・大久保一翁の大阪・伊勢方面の海岸検分に同行せよ」とありました。一翁は江戸に戻った数ヶ月後、長崎にある「長崎海軍伝習所」に勝を伝習生の監督として送り込みました。(勝がその後、神戸海軍操練所をはじめたときに、坂本龍馬を同じように操練生の監督とした流れと同じです。)
そのころの龍馬ですが、すでに土佐に帰国しており父の八平が他界し、土佐の絵師・河田小龍を訪ねて、何度か歓談していました。小龍が「今の武器など子供だましだ、洋船で通商して、航海術を学ぶのが先だ」と言うと、龍馬は手を打って賛成し、小龍に「洋船での通商」を約束したのでした。
坂本龍馬の先生 勝海舟との出会い
龍馬に影響を与えた先生は、勝海舟。
勝海舟が親交のあった人たちのエピソードを書いた「追賛一話」、その中に坂本龍馬との出会いが記載されています。剣客・千葉周太郎を伴い訪問しました。当時は開国か攘夷かを巡り国論が2分されていた時代でした。咸臨丸でアメリカに行った勝を斬ろうと攘夷派の龍馬がやってきました。
ところが国を開き、海軍を持つことの重要性を聞いて、龍馬は自分の考え方が凝り固まっていることに気づいました。そして龍馬は勝の弟子になりました。
2年弱の経験と人脈が薩長同盟などの大きな偉業に繋がって行くのでした。
そして龍馬は、勝の指導で大久保一翁など幕府の大物たちと次々に会いにいきます。
坂本龍馬へ授けた大久保一翁の「船中八策」
慶応三年(1867年)四月、龍馬は藩命で土佐海援隊に任命されました。龍馬は一翁に約束した「死力を尽くす」という言葉を忘れていません。海援隊が蒸気船を駆使して諸藩の貿易を仲介したもの、一翁の理想を実現するための活動だったからです。
龍馬は、同年6月22日、土佐藩の板垣退助、中岡慎太郎らと薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀と京都で討幕を密約したのち、一翁の思想を受け継いだ龍馬は「大政奉還」論を説きました。
一翁の目に狂いはありませんでした。思想を実現しようと龍馬が死力を尽くして行動するのです。
薩摩・土佐の盟約の会談に向かう船中で、龍馬が後藤象二郎にスラスラと書いて見せたのが「船中八策」だったのです。
龍馬はスラスラ書けるほど一翁の思想を体得していたのです。
坂本龍馬の「大政奉還」は大久保一翁思想の最終形
土佐藩の参政・後藤象二郎は急いで龍馬の「船中八策」にもとづく建白書を作成し、土佐藩主・山内容堂名の「大政奉還建白書」が幕府の閣老・板倉勝静に提出されました。
「大政奉還」成就! 慶応三年(1867)10月15日、徳川慶喜自ら朝廷に政権を返上しました。その1ヶ月後の11月15日、龍馬の33歳の誕生日の日、京都の「近江屋」で突然斬り込んできた二人の刺客によって龍馬は暗殺されまました。
その死は、江戸にいる一翁と勝に知らされ、二人は胸が張り裂ける思いがしたに違いないでしょう。
龍馬は5年前にはじめて出会ったときの、「死力を尽くす」約束を実行したのでした。龍馬は歴史に永遠に咲く大輪の花と化したのでした。
大久保一翁は、坂本龍馬に英雄的活動の設計図を与えていたのです。
最後までお読みいただきまして
ありがとうございました!
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