戦国武将の織田信長に謀反を起こして裏切った明智光秀はどんな人物?
なぜ、「本能寺の変」をおこしたの?
こういった疑問に答えます。
本能寺の変の真実とは?
明智光秀が織田信長を討った理由と謎に迫る
戦国時代最大のクーデター、「本能寺の変」。
明智光秀が織田信長に謀反を起こした理由はいまだに謎とされています。
本記事では、明智光秀という人物の実像に迫りながら、「なぜ信長を討ったのか?」を徹底解説します!
・明智光秀とはどんな人物だったのか?
なぜ信長を襲ったのか?主な説と背景
明智光秀とは何者だったのか?
明智光秀は1528年、美濃国(今の岐阜県)で生まれました。最初は斎藤道三に仕えていましたが、主を失い浪人に。各地を転々としながら鉄砲術や和歌などの教養を身につけていきました。
やがて織田信長に仕え、その知略と実直さが評価されて頭角を現します。
信長に重用され、出世を重ねた光秀
織田家に仕えた光秀は、比叡山延暦寺の焼き討ちや丹波攻略などで大きな成果をあげ、最終的には近畿地方を任される方面軍の司令官にまで出世します。
この功績からも、信長が光秀を非常に信頼していたことがわかります。
それでも、なぜ本能寺の変を起こしたのか?
1582年、光秀は突如として本能寺にいた信長を急襲します。この事件こそが有名な「本能寺の変」です。
信長は自ら戦った末、自害。息子の信忠も命を落とし、織田家は急速に弱体化。わずか11日後、山崎の戦いで光秀は羽柴(後の豊臣)秀吉に討たれます。
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光秀が謀反を起こした理由は?主な説
現在でも光秀の動機は明らかになっていません。ですが、いくつかの有力な説が存在します。
怨恨説
信長は気性が荒く、光秀に暴力をふるったとする記録も。接待の失敗で役職を外され、怒りが頂点に達したとも。
四国説
光秀が信頼していた四国の大名・長宗我部元親を信長が攻めようとしたため、関係悪化。
野望説
信長亡き後の天下を狙った。実際、光秀は信長の死後、すぐに政権掌握を試みています。
黒幕説
朝廷や徳川家康、豊臣秀吉などが裏で糸を引いていたという説も。
明智光秀の性格は?実は戦国屈指の知将?
宣教師ルイス・フロイスによると、光秀は「狡猾だが優れた策略家」と評されています。一方で、家族や部下を大切にする一面も。
また、比叡山延暦寺の焼き討ちでは冷徹さを見せたことから、「目的のために手段を選ばない現実主義者」とも言われます。
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