戦国武将の織田信長に謀反を起こして裏切った明智光秀はどんな人物?
なぜ、「本能寺の変」をおこしたの?
こういった疑問に答えます。
明智光秀の本能寺の変なぜ織田信長を討ったのか?明智光秀はどんな人物?
明智光秀と聞くと、「織田信長に謀反を起こして裏切った」や「真面目な性格が信長と合わなかった」とイメージを持つ人も多いと思います。
近年、明智光秀に関する研究がすすみ、今まで知られていなかったことが明らかになってきました。
・明智光秀ってどんな人物だったの?かがわかります。
・織田信長を襲った理由がわかります。
と思っている人向けに書いています。
明智光秀の経歴
明智光秀は1528年に美濃国(現在の岐阜県)に生まれました。
はじめの頃は斉藤道三(さいとう どうさん)という戦国大名に仕えていましたが、道三が滅ぼされたのちは浪人となり、いろいろな場所を転々とする生活を送ります。
光秀はこの時に鉄砲などの最新の技術や、和歌といった教養を身に着けました。
1569年ごろに織田信長の部下になります。信長35歳、光秀41歳のときでした。
信長は光秀の頭のいいところや、物知りなところを気に入ったようです。
光秀は比叡山延暦寺焼き討ちや長篠の戦いなどに加わり、政治の面でも活躍し、信長の部下の中で出世していきます。1580年ごろには、戦歴を積み重ねて成果をあげたことで、近畿地方を預かる武将のトップにまで登りつめました。
明智光秀が本能寺の変以外に残した主な功績としては
- 足利幕府との外交担当
- 金ヶ崎の戦いで殿を務める
- 比叡山焼き討ちで軍功をあげる
- 丹波国を攻略する
など、武将として成果をあげています。
金ヶ崎の戦いとは、浅井長政の裏切りで背後を攻め込まれた時の戦いであり、
織田信長を守るために撤退しながら戦う殿(しんがり)の役割を全うしました。
のちに戦うことになる、豊臣秀吉と共に戦ったことも後から振り返ると印象的ですね。
では、最初から明智光秀は織田信長に評価されていたのでしょうか?
明智光秀は身分が低かった
光秀は、清和源氏の土岐氏の支流で、身分の低い武士の出身です。前半生は不明点が多く、生まれた年や父親の名前もわからないほどです。
江戸時代に編纂された「当代記」にも、朝夕の食事にも事欠くありさまと、記録にも残っていることから
最初は、周りから注目されていなかったことがうかがいしれます。
明智光秀は細川藤孝の家来から織田信長に仕える
前半生で明智光秀についてわかっていることとして、宣教師ルイスフロイスの「日本史」によると
足利幕府の幕臣、細川藤孝の家来だったことが記されています。
明智光秀がかつて身を寄せていた越前国の朝倉家は、室町幕府の将軍足利義昭と繋がりがあったことから
明智光秀は足利幕府の幕臣として、本格的なキャリアをスタートさせます。
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明智光秀は方面司令官まで上り詰める
光秀が織田家の家臣になった頃には、すでに豊臣秀吉や柴田勝家とは序列が離れていましたが、天正三年(1575年)頃には、方面軍司令官と呼ばれる、攻める地域別の責任者の一人として名を連ねます。
北陸方面は柴田勝家、関東方面は滝川一益、中国方面は豊臣秀吉などの歴戦の武将ばかり。
一番織田家として経歴が浅いのに、万単位の人数を動員できる任務についた明智光秀は、織田信長からとても高い評価を得ていたことがわかりますね。
明智光秀の本国寺の変で時の人になる
本能寺の変とは、1582年に明智光秀が主君である信長を裏切った事件のことを言います。本国寺と呼ばれるお寺に三好三人衆が攻めてきた時に撃退した戦いのことです。当時、将軍足利義昭が仮御所として滞在していた、本国寺。
近畿地方を支配下におさめつつあった信長は、中国地方を自分のものにしようと考え、羽柴秀吉らを向かわせます。光秀も秀吉とともに戦うため自分の軍隊を丹波(現在の京都府から兵庫県あたり)まで進めますが、突然軍隊を引き返し、信長がいる本能寺に襲いかかります。
この時、本能寺に向かう途中の光秀が言ったとされるのが「敵は本能寺にあり!」という有名な言葉です。光秀に襲われた信長は自ら槍を持って戦いますが、勝ち目がないと分かった後に自害しました。
本能寺の変の後、光秀は信長の嫡男・信忠(のぶただ)も攻め、信忠も自害してしまいます。
信長と信忠という2トップを失った織田家は急におとろえてしまい、この11日後におこった山崎の戦いで光秀をたおした羽柴(豊臣)秀吉が天下人になる大きなきっかけとなりました。
明智光秀が本能寺の変をおこした理由は?
さて、光秀が信長を襲った理由が気になりますが、いまだに解明されていません。
憶測としては、
・光秀は日頃から信長に恨みを抱いていた
・自分の地位が不安定だと感じた
・天下人になりたかった
・秀吉や家康と手を組んでいた
・足利家や朝廷などに頼まれた
こうした色々な説が考えられています。
中でも光秀は日頃から信長に恨みを抱いていた「怨恨説」。本能寺の直前に徳川家康の接待役として、明智光秀が役目を担当します。しかし、対応が悪かったのか任務を解かれて、「秀吉の救援向かえ」と命令されます。その際、足蹴をされて恨んでいる怨恨説。
最近では、四国の大名・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)を攻めようとした信長の考え方に反発したため、という「四国説」が有力になっています。光秀は長宗我部元親と仲が良く、元親を攻めようとする信長に対して、恨みや恐れを感じたのでは?という説です。
また、本能寺の変がおこった時、秀吉など信長の主な家臣は遠くで戦っていたので、近畿地方にはいませんでした。近くに警戒する同僚がいなったことは、光秀にとっては信長を討てる絶好のタイミングだったのです。
日頃の恨みを晴らす、もしくは自分の野望を実現するには今しかない!と考えたのかもしれません。
光秀が信長に仕えるまでに色々な人のもとを渡り歩いていたことや、信長軍の中では新参者だったことも考えると、どの説も当てはまりそうで、1つに絞るのがなかなか難しいですよね。
はっきりしていないからこそ、いろんな説があるわけですがどうしてだろうと推測することも、歴史の楽しみ方の1つではないでしょうか。
明智光秀の性格
「実直な人」「心優しい武将」の性格のイメージがある、明智光秀。
織田信長や徳川家康に比べて、光秀に関する歴史の資料はあまり多くありませんが、性格について考察してみます。
残酷な人間
ポルトガルの宣教師でイエズス会に所属するルイスフロイスは、キリスト教を布教するため来日します。
日本の布教活動を記録するためにルイス・フロイスによって書かれた「日本史」は、客観的で信用性の高い資料と評価されていますが、明智光秀に関する記述があります。
「日本史」には
- 深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなる
- 計略と策謀の達人
- よそ者で、ほとんど全ての者から快く思われていなかった
と悪口のような内容です。
歴史書は、書き手の感情や後の支配者からの圧力によって真実と異なる場合もありますが、
建築の達人と評価している部分もあるので、一定の評価もしています。
目的のためには手段を選ばない
光秀は、延暦寺焼き討ちで武功をあげると、信長から延暦寺を含む滋賀郡の領地をもらいます。
そして、宗派が違う曼殊院や青蓮院も延暦寺に関係するとして、明智光秀は強引に自分のモノにしています。
光秀は当時珍しい鉄砲の使い手でもあったので、高価な鉄砲を手に入れて戦果を上げるためにも、強引に押領をしていたのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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