怪我、倒産、工場と自宅の全焼、借金:志太 勤一から這い上がった!
子供の頃は、プロ野球選手に憧れたが、怪我で野球をあきらめ、いちどは自殺まで考える。高校3年生から始めた食堂は、周辺環境の変化により廃業に追い込まれる。やっとのことで立ち上げたアイスキャンディ事業は、工場と自宅の全焼という悲劇に見舞われる。
挫折続きの起業家人生。
しかし、志太は悲観することなく、地道に努力し続けた。なんとしてでも、日本一の商売人になってやる!その強い信念が彼を支え続けた。
失敗にめげることなく、挑み続けた志太勤。その志太の情熱は、いまもなお燃えさかっている。
シダックスの給食事業が天職 志太勤一さんは野球魂から這い上がり人生
野球ができないことに絶望して自殺を考えるが、通りがかった人に説得される。
高校3年生から食堂を始める。1日に3〜4時間しか寝ずに頑張るが、食堂は倒産に。
22歳からアイスキャンディ事業を立ち上げるが、工場と自宅が全焼。巨額の借金だけが残る。
鉄クズを拾い集めて東京への電車賃を捻出。志太勤(しだ つとむ)氏の、その後は…↓ ↓ ↓志太氏は、”怪我、倒産、工場と自宅の全焼、借金” という状況に、「俺は運に見放されているのか!」と嘆いたそうです。しかし、自身の原点であるフードサービス業に再挑戦。自らの名字から取った「シダックス」という会社を設立しました。
志太勤一さんの生い立ち
プロ野球を目指し少年時代
野山を駆け回る猿のようなガキ大将。野球が大好きで、野球少年。小学校6年生のときに野球をやり始めて、野球ばかりをやっていました。高校は野球で有名な静岡県立韮山高校に入学。ちょうど志太さんが入学する前の年に、韮山高校は甲子園で優勝。
その優勝決定戦は、興奮しながらラジオで聞いていた。韮山に凱旋した韮山高校チームを、地元の人たちは熱烈に歓迎した。志太さんも提灯を持ちながら、選手達を祝福。すごい憧れを持って、選手を見ていた。
高校に入学し、迷わず野球部に入部した。一年生の頃は、ひたすら球拾いに明け暮れる毎日。その当時は、「日本一の投手」になることを夢見る。厳しい練習もいっこうに苦にはならなかった。そして二年生のときに、晴れてピッチャーでレギュラーになれた。スタミナもあったし、球はメチャ速かった。時速140キロ前後。
しかし、レギュラーになったその年、静岡県の予選大会で右腕に激痛が走り、すぐに急患で病院に運び込まれて、体じゅうの関節にギブスをはめられた。医者からは、「多発性関節炎だ。一生ボールを握ることはできないよ」と一言、告げられた。
実業家として軌道に乗ってから自社にシダックス野球部を創設し総監督に就任。2003年~2005年には友人の野村克也(ヤクルト・阪神・楽天監督)がGM兼監督として指揮を執り、注目を集めた。現在でも日本中学生野球連盟の会長を務めるなど、野球を通じた健全な青少年の育成に尽力している。
野村克也さんの名著書 学ぶ点がめじろ押し 必見です!
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野球ができないショックから自殺
野球だけが人生だった 本当にショックを受けた。もうその野球ができない。まさに人生の絶望を感じた。いっきに目の前が真っ白に、もう死んだ方がいいとまで思った。そして、ある日、自然とその場所に足が向いて、自殺の名所である熱海の錦ヶ浦海岸に行く。
「そのまま放っておくと自殺するかもしれない!」海岸公園を管理している中年の男性が近づいてきて、声をかけられた。そして、いろいろと志太の話を聞いてくれた。その人は、「野球だけが人生じゃない。
その人の話を聞いて、はじめて「野球だけが日本一じゃなくて、商売にも日本一があるんだ」ってことを知りました。「よし、商売人になろう。日本一の商売人になってやろう」と心に誓った。
商売への挑戦開始
高校3年生の秋に、親戚から、大衆食堂「大ごたつ」の経営を譲り受ける。
大衆食堂
高校に通いながら、その食堂の仕事をした。食堂は、俗に言う「トラック昼夜食堂」という大衆食堂。店は繁盛していて、ひたすら働いた。1日に3,4時間くらいしか寝られなかった。
しかし、繁盛していた食堂が、廃業に追い込まれる。新しいバイパス道路が開通して、トラックが食堂に寄らなくなった。こうして、その食堂は旧道に残された廃屋同然になった。
この経験で、「いくら才覚があっても、いくら働いても、ビジネスの環境が変われば、どうしようもないことがある」ということを学びました。時代の流れを着実につかみ、チャンスをものにしていく。それが大事だと気づいたんです。逆に言えば、時代に逆行すると、どれだけ努力しても成功は難しい。この挫折は、志太さんにとって貴重な財産になりました。
アイスキャンディ事業
志太さんのお兄さんがアイスキャンディ事業を展開。それを見習って、1956年からアイスキャンディ事業を開始、22歳。戦後間もない頃、甘いものが少なく、このアイスキャンディは飛ぶように売れた。原料は水とシロップだけ、原価率は低かった。よって利幅が大きい。このアイスキャンディ事業は、静岡県東部で一、二位を争うところまで成長。
その後、1958年4月13日、事業をさらに拡大するため、静岡県では最大規模で最新鋭の冷菓工場を建設したが、またしても災難が降りかかる。その冷菓工場が、竣工一年後に社員寮、自宅ともに全焼してしまった。しかも火災保険などには入っていなかったので、工場を建設する時に借りた借金だけが残った。
この時は、さすがに度重なる不運に絶望し、「これからどう生きていこうか」と呆然と立ち尽くした。漠然とした不安感というより、「オレは運命に見放されているのではないか?」という恐怖感を感じたようです。
東京からの再出発
故郷はもう惨敗の地。当時の地方で事業で失敗した人に、もう一度チャンスを与えるような雰囲気はなく、心機一転、東京に出る覚悟をする。
そして、家族を残して上京。お金がないので、燃えた工場の跡地に行って、鉄クズを拾い集めて電車賃を捻出した。そうして新宿へと向かった。
新宿駅に着いた印象は、「東京は毎日がお祭りなんだ」と感じた。とにかく人が多い。そんな時「毎日がお祭りだから、人は有り余るほどいる。「この群集の一人ひとりから、たとえ10円でも稼ぐことができれば、積み重ね式で増えていくことで、100万円にも1000万円にもなる」ということを考えた。「もうこれは東京で商売するしかない。日本一の商売人になるには、東京しかない」。そう決意
東京の知り合いは、一人しかいなかった。妻の父親が藤田さんと知り合いだった。そこで、藤田さんに「仕事をまわしてほしい」と何度もお願いした。仕事は、「食の世界」以外にはないと思ったいた。藤田さんの自宅へは、12,3回も訪問し最後の訪問の時に、「志太君、キミには負けたよ。キミの思うようにやっていいよ」との言葉をもらった。
給食サービス事業
給食事業が自分の天職であると思えるようになってきた。この事業を大切に育てていき、全力を尽くすことが、自分のかけがえのない人生なんだと思えるようなり、自分の仕事が天職だと思えるようになれば、それは本当に強い。また自分の仕事が天職だと思えると、一種の使命感も湧いてくる。
アメリカに行ったときのこと。アメリカのフードサービスを視察するために、あるビジネスツアーに参加、そのツアーでシカゴに行った時、ビッグフード社という給食サービス会社の副社長に出会う。
その時に給食事業の社会的重要性を教えられた。「給食サービスという仕事はとても大事な仕事で、社員の健康を管理して、その企業の生産の一翼を担っているんだ」と。
志太勤さんの経営学を学ぶための書籍です。 これでさらに起業から成功までの道筋が見えてきます!
①「志」 ;「オレは絶対にこうなるんだという強い気持ち」。起業すれば、いろんな難題にぶち当たる。そんな難題も志を持っていれば乗り越えられる。
②「計画力」;その志に向かうまでの、道のりを決める。10年後の自分を思い描ければ、そのために5年後までに何をするか、1年後までに何をするか、それを決めないといけない。そういう計画を持ってこそ、無駄のない人生が送れる。
③「達成力」;執念ということ。なにがなんでもやり抜く。その集中力。これが大事です。「的面の今」、弓で矢を射るときに、的の一点に集中する集中力のこと。雑念を振り払って、一点だけに集中する。そんな集中力が起業家には必要。
志太勤一の名言
厳しい状況に置かれたときは、やはり原点回帰ですよね。何のために商売をやっているのか。この事業を続けることが人様のためになる、お国のためになるという原点に立ち返ることですね。
人間持って生まれた能力に 大きな差はない。結果の違いは、本人の努力次第。迷いは誰にでもある。要はどこまでしっかりとした志を持つかだ。
志とは、「オレは絶対にこうなるんだという強い気持ち」です。起業すれば、いろんな難題にぶち当たります。そんな難題も志を持っていれば乗り越えられるんです。
さいごに
これは、レストラン、カラオケ、学校給食 など、幅広く全国展開しているシダックス社の誕生秘話です。この、自らの運命を呪いたくなるような逆境を乗り越えた精神力、見習っていきたいですね♪
また現在は、とてもビッグチャンスな時代だと思います。今の時代は、幕末期、戦後復興期につづく三度目の大きな転換期です。情報革命と豊饒化というビッグチェンジが、同時にビッグチャンスを生んでいます。しっかりとした方向性を定めて、志を高く持って、地道に努力すれば大成功するでしょう。まずは自分の行き先を決めて、頑張ってください。みなさんの挑戦を応援しています。
最後までお読みいただきまして
ありがとうございました!
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応援お願い致します。
コメント
素晴らしい名言です。
コメントありがとうございます。名言ってその人が本当に体験したことを語っているので、感動しますね。 名言を残せる人間になっていきたいですね
【名言を残せる人間になっていきたいです】これも名言に聞こえます(✿^‿^)