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シルベスター・スタローンの過去はポ○○俳優だった!遅咲きハリウッドスター

遅咲き人生の成功者
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TOM

遅咲きの人生を送る有名人や偉人には、なぜ成功者が多いのでしょうか?

 

そうですね! どうしてでしょうか? 映画『ロッキー』や『ランボー』シリーズなどで知られるシルベスター・スタローンも遅咲き人生なんですね?

 

こんな疑問にお答えします。

 

シルベスター・スタローンの過去はポ○○俳優だった!遅咲きハリウッドスター

 

出産時の産科医のミスにより顔左側の神経が傷つけられ、生まれつきの言語障害を患うようになったスタローン。

少年時代に両親が離婚し、24歳まではポルノ男優として生計を立てました。

その後は、自身が脚本・主演をつとめた「ロッキー」がアカデミー賞最優秀作品賞を受賞し、一躍ハリウッドのトップスターへ!

このブログでは、遅咲きと言われる俳優や作家たちなどを例にとって、その理由を詳しく解説してきましたが、今回は映画俳優のシルベスター・スタローンについてまとめました。

 

■この記事を読んでわかること
  • シルベスター・スタローンの生い立ち
  • シルベスター・スタローン ロッキー誕生
  • シルベスター・スタローン出演作

 

 

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シルベスター・スタローンの生い立ち

映画「ロッキー」や「ランボー」が世界的に大ヒットして以来、40年以上も第一線で活躍されている、シルベスター・スタローン(Sylvester Stallone)ですが、出産時の医療ミスで、左顔面麻痺と言語障害となり、少年時代はイジメられていたといいます。

スタローンの父親はイタリア人で、ヘアサロンのチェーン店を築いた美容師、母親は占星術師、ダンサー、女性レスリングのプロモーターというさまざまな肩書きを持っていました。

 

シルベスター・スタローン医療ミスから生まれる

産婦人科の医師が鉗子の取り扱いを誤った施術をし、スタローンの顔を鉗子で引っ張ってしまいました。顔面の左側神経が傷つけられたそうで、その後遺症として、彼の顔の左側下部、特に唇、舌、あごには麻痺の症状が残りました。

特に左側の唇が垂れ下がったうえ、言語障害になってしまったそうです。

鉗子分娩(かんしぶんべん)
鉗子(かんし)という器具は金属製の2枚のへらを組み合わせたはさみのようなもので、これで赤ちゃんの頭を両側からはさんで引き出すものを鉗子分娩(かんしぶんべん)といいます。

鉗子(かんし)や吸引を使ってお産(難産)を助ける「鉗子分娩(かんしぶんべん)」と「吸引分娩(きゅういんぶんべん)」の分娩方法があります。鉗子分娩(かんしぶんべん)は吸引分娩(きゅういんぶんべん)より早くから用いられた方法です。日本で現在のように帝王切開が発達していなかった頃に緊急時に対応する分娩法として鉗子分娩(かんしぶんべんが行われていました。

引用:京都産婦人科 身原病院https://www.mihara.com/glossary/detail.php?no=MTE=

 

シルベスター・スタローン 少年時代からイジメられっ子

そのせいで、特徴的な顔となり、舌足らずな話し方だったスタローンは、常にイジメられ、内向的な性格になったそうです。

小さい頃のスタローンはスーパーヒーローに憧れており、学校の制服の下にはスーパーヒーローのコスチュームを着ていたそうです。 またスーパーマンのように空を飛ぼうとして、自分の部屋の窓から飛び出した逸話もあり、空想することが好きな少年だったそうです。

1957年、11歳のとき両親が離婚すると、徐々にずさんな生活を送おくるようになったそうです。

学生の時に、いじめに遭っていたスタローンは、映画「ヘラクレス」(1958)を観て、主演のボディビルダーで映画俳優のスティーブ・リーブスさんの男らしさに憧れ、スティーブ・リーブのような男らしいスターに憧れボディビルを始めました。

しかし、道具を買うにはお金が足りなかったスタローンは、地元の廃品集積場で自動車のパーツをくすね、自分でトレーニング器具を作り、マッチョな身体を手に入れました。

 

シルベスター・スタローン スイス留学が転機

素行があまりよくなかった学生時代のスタローンは、アメリカの14もの大学から入学を拒否されました。

高校を卒業すると、美容師学校へ入学するも中退。ただ、1965年、18歳のときに困った母親はスイスの大学にスタローンを留学させます。そこで演劇と出会い演技に興味を持ち始め、本格的に俳優を志すようになります。

アメリカに帰国後は、生まれ育ったニューヨークから遠く離れたフロリダへ渡り、マイアミ大学演劇科に入学、俳優として舞台に立つほか、課題で脚本を書くようなります。

しかし、演技でも脚本でもまったく注目されず、スタローンさんは、勝負に出ようと、映画界へ飛び込む決意をし、マイアミ大学演劇科を中退します。

シルベスター・スタローン 映画の世界へ

1969年、23歳の時、大スターになることを夢見

て、ニューヨークに戻ります。

片っ端からオーディションを受けますが、落選ばかりでした。(スタローンは、その間、エキストラや端役で食いつなぐ日々を送るも、家賃が払えなくなり、アパートを追い出され、ニューヨークのバス停で何週間もホームレスをしていたこともあったそうです。)

生活のため、不本意ながら、ポルノ映画やアダルト劇の舞台に立ったこともあったといいます。

 

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シルベスター・スタローン ポルノ俳優から【ロッキー】へ

ホームレスにまでなってしまったスタローンは、仕事を探しているところ、ポルノ映画の男優募集の記事を見つけました。出演料はわすか200ドル(約21,000円)だったにもかかわらず、生活のために出演を決意。

1970年、24歳の時には、ソフトコアポルノParty at Kitty and Studs(子猫と種馬のパーティ)に出演されたそうです。

また、1971年には、オフ・ブロードウェイの小劇場でScoreというアダルト劇の舞台に立つなどしてお金を稼ぎますが、その日暮らしの極貧生活が続きます。

 

そんな極貧生活の中、ついに、1974年には、出演した映画「ブルックリンの青春」の演技が評価されてます。そしてハリウッドに移り、1975年には、映画「デス・レース2000年」で準主役に抜擢されました。

しかし、その後は、ニューヨーク時代と同じように、ハリウッドでもなかなかオーディションに受からず、また再び苦しい日々が続きます。(オーディションには50回以上も落選したそうです)

 

シルベスター・スタローン ロッキー誕生

出世作になった『ロッキー』の脚本も担当していたスタローン。

1975年に行われた、ボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリ VSチャック・ウェプナー戦」

テレビ放送を観て、インスピレーションを得ました。そして早速執筆に取り掛かると、3日間寝ずに、「ロッキー」の脚本を書き上げます。

また、資金繰りに困っていたスタローンは愛犬を50ドルで売らなければなりませんでした。

並々ならぬ思いを込めて仕上げた脚本を、早速、スタローンさんは、エージェントに持ち込むのですが・・・・

「ロッキー」の脚本はバカにされたそうで、売り込んでも、簡単にその脚本を買ってくれる人いません・・・ある日のこと、オーディションを受けて落ち、部屋を出ていこうとした時、スタローンは何気なく「ロッキー」の脚本のことをプロデューサーたちに話すと、プロデューサーたちが興味をもち、早速、脚本を読んでもらうと、プロデューサーたちは大絶賛。是非、脚本を買い取りたいと、7万5千ドルという当時の脚本料としては破格の料金を提示されたそうです。

 

スタローンは「ロッキー」の脚本を売る条件として、

ロッキーを自分が演じるのでなければ、脚本は売らない

 

ついにはプロデューサーが折れ、スタローンさんは、自身の脚本で主演の座をつかんだのでした。

以前売った愛犬を買い戻します。売った男の家に行きましたが拒否され、3000ドルを渡し取り戻したそうです。 ちなみに犬を売った男は『ロッキー』にも出演しています。

シルベスター・スタローン=ロッキーの人生は同じ

出産時の医療ミスで左顔面麻痺と言語障害を負って生まれ、子供の頃からイジメられ、両親が離婚。そして不良になり、最後には俳優でスターになることを夢見るが、なかなかオーディションに受からず、エキストラやポルノ映画に出演してその日暮らしをしながら、決して諦めないスタローン。

その姿を重ね、ボクシングの素質はあるものの芽が出ず、賭けボクシングの賞金や、知人の高利貸しの取り立て人の手下をしながら日銭を稼ぐ生活を送る日々、やがて、ボクシングの世界チャンピオンに挑んでいく主人公・ロッキーの物語を思いついたのだそうです。

シルベスター・スタローン出演作

出演作品
ロッキー シリーズ
1976年〜
ランボー・シリーズ
1982年
クリフハンガー
1993年
デイライト/デモリションマン
1996年
ロッキー・ザ・ファイナル
2006年
ランボー/最後の戦場
2008年
エクスペンダブルズ・シリーズ
2010年〜
クリード 炎の宿敵
2018年
ランボー ラスト・ブラッド
2019年

 

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