浅草の芸人といえば、
ビートたけしさんと欽ちゃんこと萩本欽一さんですが・・・・
お二人の仲は良くなかったと聞いたけど、実際どうなの?
そんな疑問にお答えします。
渥美清、萩本欽一、ビートたけし…国民的スターを数多く生みだした浅草の伝説の劇場
「フランス座」
演芸場として愛されているかつての“フランス座”から、多くの有名芸人が誕生しました。
「コント55号」としてブレイク以降、ピンとしても「視聴率100%男」と言われ、一世を風靡した、萩本欽一さん。
今回の記事は、そんな萩本欽一さんと、現在の「お笑いビッグ3」の一人、ビートたけしさんとの関係をご紹介します。
深見千三郎の孫弟子に当たるのが萩本欽一であり、
深見千三郎の最後の弟子に当たるのがビートたけしなのだ。
物語は複雑に絡まりながらつながっている。
ビートたけし VS 萩本欽一の図式
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1970年代中頃から約10年間、萩本欽一さんこと「欽ちゃん」は、バラエティ番組において絶対的な存在として君臨しており、欽ちゃんが企画・主演するお笑い番組はどれも高視聴率を記録するなど、向かうところ敵なしの状態でした。
しかし、そんな人気絶頂だった欽ちゃんに、敵意むき出しで挑んでいたのが、ビートたけしさんと弟子の「たけし軍団」だったそうです。
この「たけし軍団」は序列が厳しく、また結束が固いことでも有名でした。
それはなぜかと言うと「たけし軍団」には、「打倒!欽ちゃん」という大きな目標があったからでした。
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お笑い界で天下を取るためには、欽ちゃんを倒すしかないと思っていて結束を固めていたのです。
ビートたけしは、欽ちゃんと違うお笑いを目指し、ときには欽ちゃんのお笑いに対する姿勢をも激しく攻撃していたのです。
そんな中、欽ちゃんが、1985年から充電期間に入られると、まるで、お笑い界の世代交代をするかのように、同年、たけしさんの冠番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」が放送開始したのでした。
萩本欽一のビートたけしへの想い
そんなこともあり、「たけし軍団」の大番頭と言われた、ガダルカナル・タカさんが、2011年、初めて萩本さんと共演しました。
フジテレビで放送された『テレビを輝かせた100人』では萩本欽一が大物ゲストとして番組途中に出演して、自身の知られざるエピソードを語っていた。
そんな中、その最後にガダルカナル・タカとやり取りが交わされました。
タカ: 色々な萩本さんの笑いのセオリーの中で「下ネタをやらない」っていうのがあると思うんですけど、たけしさんを含め我々はずーっと下ネタオンリーみたいなところがあって(笑)、それを萩本さんはどんなふうにご覧になっていたのかな?って。すれ違う瞬間、楽屋が近くにあってもご挨拶出来なかったりしたので。嫌われてるんじゃないかなーとか。そういうのもあったんで。
萩本: あ、そういう他の人が(下ネタを)やってるなんて全然なんともないし、現に私だって、裸の劇場で下ネタやってるところでやってましたから。ただ、僕の師匠の東八郎さんがたったひとつ教えてくれたのが、「笑いやってて芸人疲れてくると下ネタに行く。下ネタはよくウケる。だから下ネタをやるな、じゃない。それが出たら疲れてると思え」ってアドバイスがあったのよ。だから東さんがやってる限り、(元気で)やってるよっていう意味でも(下ネタはやらなかった)。(師匠への)恩返しみたいな。だから全然、相手がやるのは気にしてない。
タカは言うまでもなく、
たけしと軍団のこと、大嫌いですよね?
と、思い切って尋ねられたそうですが、
実は、たけしさんも萩本さんと同様、駆け出しの頃は、浅草の演芸場「フランス座」で修行をした「浅草芸人」だったことから、
萩本さんからは、
実は浅草で弟みたいに(たけしを)思っていた
と、意外な答えが返ってきたそうです。
そして萩本欽一は優しくタカに微笑み言う。
萩本:だから(たけしに)言っておいて。「大好き」だって。
これを聞いたタカは感極まり、最初こそ泣くのを堪えていたが、司会の今田耕司に話を振られると、耐え切れずに涙をこぼしたした。
当然、軍団として間近でたけしの萩本欽一への深く複雑な思いを肌で知っているからこその涙でしょうね。
とビートたけしさんへの気持ちを明かされています。
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『浅草芸人』萩本欽一とビートたけし
『浅草芸人』は、演芸の街である浅草の明治以来の150年史を綴った書である。
萩本欽一の浅草での修業時代についてこう書かれている。
初めはあがり症のためセリフが言えず、演出家から「やめたほうがいい」と諭された萩本だったが、先輩の池信一と東八郎が、「あの子の『はい』という返事だけはいい」と言ってくれたおかげでクビにならずに済んだ。
その後、ドラムの練習を始め、それを習得すると一気にそれを克服したという。
足りなかったのはリズム感と自信だったのだろう。
やがて、坂上二郎とコンビを組んだ萩本は浅草のフランス座で「火の出るようなアドリブ合戦」で爆発的な人気を得て、テレビに進出して行く。
このコンビ、コント55号の異常性を著者は以下のように解説している。
このコンビが異様なのは、ツッコミの萩本が変人で、ボケの坂上二郎のほうが常識人というところだ。
萩本は設定だけを考えて、それを舞台の直前で坂上に教えた。したがって、二人のやりとりは、ほぼアドリブである。
萩本は、坂上に何かの行動を強制する。坂上は素直にやってみせる。萩本は、その行動にいちゃもんをつけ、何度も何度も同じことをやらせる。かつて萩本が東洋劇場で東八郎から学んだ技術である。本来、理は坂上のほうにあり、萩本が口にしているのは言いがかりにすぎないのだが、その偏執狂的なしつこさが爆笑を呼んだ。
一方、ビートたけしは新生フランス座の座長に就いた深見千三郎に師事した。
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たけしは、芸風から服装、ものの言い方まで、すべて師匠のまねをしていた。というより、自然に影響を受けていったのだろう。乾いた砂地が水を吸い取るように、たけしは深見の芸や考え方を吸収していった。
深見とたけしほど濃密な師弟関係はなかった、という。
しかし、たけしは同じフランス座の仲間だった兼子二郎に誘われ漫才を始める。
たけし自身は、まったく漫才に興味を持っていなかったが、浅草でのぬるま湯のような生活に飽きかけていたのと、二朗の勧誘があまりにもしつこかったので、その話を了承する。たけしから、フランス座を離れると聞かされた深見は顔色を変えて怒り、その後しばらく、たけしが訪ねてきても、決して会おうとしなかったという。
やがて、ツービートを結成してテレビ界を席巻していくことになるビートたけし。
彼にとっての「浅草」は複雑な愛憎の思いが渦巻いている。
たけしの浅草への思いには、売れずに浅草でくすぶり続けている芸人たちへの申し訳なさと、もどかしさが入り混じっている。また、師匠である深見千三郎が持つ舞台芸に対する憧れや、自分には追いつけないという劣等感も絡みついている。
萩本欽一とビートたけし
萩本欽一の師は東八郎である。
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実は、東(八郎)がロック座にいたとき、こうした(萩本に教えた)芝居を一から教え込んだのが深見千三郎だった。そのため、深見にとって萩本は孫弟子に当たる。
まとめ
『人生はおもしろがった人の勝ち』(萩本欽一著、大和書房)の冒頭で、
著者の萩本欽一さんは「絶対においしいものなんか、世の中にはない」
と断言している。とはいっても否定的な意味ではなく、話はこう続けられるのだ。
「ただし、ものをおいしく食べることはできる。気心の知れた仲間と食べてもおいしいし、
自分ががんばって作った料理を目の前で誰かがおいしそうに食べてくれたら、
それを見ているだけでおいしい気持ちになってくる」と。
そしてそれは、人生についても言えるという。
絶対におもしろいことなんかない。同じことでも、状況によって、おもしろかったり、おもしろくなかったりする。だけど、どんな状況にあっても、ものごとをおもしろくすることはできるんじゃないかな。
要は、考え方一つってことだ。
(本書3ページ「はじめに おもしろく生きることに年齢は関係ない」より引用)
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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