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大山捨松は美しすぎる!鹿鳴館に咲いた名花【日本最初の女性留学生】

教育
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ゆず子
明治維新の頃、大山捨松という美しすぎる女性がいました。この女性は日本最初の女性留学生ですよね?
TOM
美人?! 大山捨松のことを知りたい! どんな女性だったの? 歴史によると日本女性で初めて海外留学したんだよね!?

 

こういった疑問に答えます。

大山捨松は美しすぎる!鹿鳴館に咲いた名花【日本最初の女性留学生】

 

日本最初の、女子留学生5人の一人に、末妹の咲子が選ばれた時、15歳年長の兄・浩は。「よいか、アメリカ社会仕込みの教育で身を立て、後日、薩長の成り上がり者共をかならず見え返してやるのじゃ」・・・・咲子、それが大山捨松。しかも・・・美人!

今回の記事は、そんな日本初の女性海外留学生の大山捨松について紹介します。

■この記事を読んでわかること
・大山捨松は美人でサムライの娘
・大山捨松人12歳でサンフランシスコへ
・小山捨松の社交デビュー
大山捨松 プロフィール
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援を行った。
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大山捨松は美しすぎるサムライの娘

 

母・唐衣(からころも)は、幼い我が娘を、異国に旅立たせる切なさを懸命に抑えつつ、これがお前との、永い別れとなるかもしれない。私はお前を「捨てたつもりでアメリカにやるが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰ってくる日を、毎日心待ちにして待っていますよ」、と願いを込め、娘の幼名を「咲子」から「捨松」と改名して、送り出しました。

留学生活を12年、アメリカに暮らした捨松だが、その旅立ちには、きわめて屈折した郷里の事情がありました。

彼女は、万延元年(1860年)2月24日、山川重固・唐衣夫婦の二男5女の末娘に生まれました。父・重固は、咲子(捨松)が生まれる前に49歳で亡くなっていましたが、彼女の生活は恵まれていました。それは重固の父・重英が会津藩の勘定奉行に抜擢され、家老に栄達した人物であったからです。

大山捨松の会津魂の「ならぬことはなりませぬ」

 

「ならぬことはなりませぬ」・・・厳格な「会津魂」で磨き抜かれたこの藩は、3代将軍・徳川家光の舎弟である保科正之を藩祖とし、教育水準の極めて高い、武士道の意識にもことほか徹底していました。

捨松に長兄・浩は、23歳で家老に就任しています。しかし、彼が家老となり、藩の軍事を統括したとき、会津藩は戊辰戦争で最も悲惨な、籠城戦を戦うことになったのです。

祖父重英と白虎隊に編入された健二郎につづいて、山川家の女たちは全員、鶴ヶ城へ入城します。この時、咲子(捨松)は8歳でした。

彼女は官軍の城への攻撃用大砲により、爆裂した砲弾によって、首をやられ、九死に一生の恐ろしい思いを体験していました。

明治元年(1868年)9月22日、鶴ヶ城は無念の開城となり、城中の人々1,700名は謹慎生活となり、明治2年11月、本州最北端の地に移住し生死の境をさまようような過酷な生活を送りました。

幸い捨松は、兄・浩のはからいで、箱館にいた坂本龍馬の父方の縁者で、ギリシャ正教会宣教師の沢辺琢磨のもとに預けられ、さらにフランス人家庭に引き取られて暮らしました。

”国賊”扱いをされた旧会津藩士たちは、薩長藩閥の新政府から、はじき出されてしまいました。

 

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大山捨松 12歳でサンフランシスコへ留学

明治2年7月、北海道開拓使が設置され、これにすがるように、捨松の次兄・山川健次郎がアメリカ留学に選ばれました。(エール大学初の日本人卒業生となる)その縁で捨松も2度目の募集に間に合い、5人の女子留学生の一人になりました。この時12歳。

サンフランシスコに到着した彼女たちは、熱烈な歓迎を受けます。

(前略)全員サムライの娘たちだそうだ。使節団の男性と比べるとはるかに顔立ちが良く魅力的である。(中略)この5人の娘たちは、日本国を出た最初の身分の高い女性である。(久野明子著「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」以下、引用文同じ)

 

捨松は、コネティカット州ニューヘブンのレオナルド=ベーコン牧師の家に滞在することになりました。礼儀作法から英語、ピアノ・・・一般教養をまず学び三年後の明治8年、捨松は男女共学の公立高校ヒルハウス=ハイスクールに入学しました。ここで3年間学び名門の女子大学ヴァッサー・カレッジに進学。捨松はここで「私の生涯で一番幸福で希望に充ちた4年間」の寮生活を送っています。

捨松は、アメリカの大学における、アジア人初の学位取得女性となりました。優秀な成績で卒業生代表10人の一人に選ばれています。捨松はわずかな歳月の中で、サムライの娘から国際的教養を持つ女性への変貌をしたのです。

大山捨松の帰国後

明治15年、足かけ12年の留学を終えて捨松は、ニューヨークを経由して帰国しました。この時捨松は23歳でした。

しかし、捨松を待っていたのは、なんらそのキャリアを活かすべきイスを用意してはいなかった日本の古い体質でした。

北海道開拓使が廃止され、管轄の移った文部省の対応に失望した捨松は、自分の家でまず、英語の個人教授を始めようとしますが、兄の健次郎に反対もあり、この計画は潰されてしまいました。

日本の実情が、欧米の国より大きく遅れており、女性の自立どころか、職すらない時代でした。

捨松は、ヴァッサー時代のシェイクスピア・クラブの経験を活かして「英語演劇クラブ」を結成します。

その活動から捨松は一人の招待客に出会います。陸軍卿・大山巌。大山は西郷隆盛の従兄弟で、明治政府の中心人物の一人でした。

捨松との年齢差は17。しかし大山もこの時代、数少ないヨーロッパ留学経験者であり捨松の留学経験が理解できる人物でした。

明治16年11月、捨松は大山巌と結婚しました。ちょうど帰国して1年後のことでした。

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大山捨松は鹿鳴館で社交デビュー

捨松はアメリカでの経験を日本の社会に生かそうと自ら行動します!

陸軍卿夫人となった捨松は、結婚の20日後、開館した「鹿鳴館(ろくめいかん)」に、華麗なる社交デビューを飾ることになります。

日本が欧米先進国に、決して遅れていないとアピールするための洋館で、連日、内外に要人とその夫人が集い、欧米諸国にならった舞踏会が開催されました。

最初の舞台は鹿鳴館。明治政府が謳歌政策のために作った外国人接待所です。

明治初期 女性の活動がいちじるしく制限された時代。そんな時代に捨松がとった行動は・・・なんと!社交界で活躍することです。 鹿鳴館の華!捨松のある願いがありました。

女性の地位を向上させるためには、政府高官の婦人同士のコミュニケーションが必要だと考えました。ある時婦人たちと病院を訪れ病院の世話をするのは男性ばかりで、女性がいないことに気づきます。

 

・日本初の看護学校の設立

資金集めのために政府高官の婦人たちにチャリティを企画します。ボランティア活動を開始。

鹿鳴館で日本初の「チャリティバザー」を開催しました。このイベントで資金が集まり、日本初の「有志共立東京病院看護婦教育所」を設立しました

 

1904年(明治37年)日露戦争勃発がはじまると、捨松は、戦争未亡人や孤児への慰問や寄付をし、無料の託児所を作るなど さまざまな社会奉仕活動をします。

 

・女子教育への支援

伊藤博文の依頼で、華族女学校の設立に尽力します。さらに留学仲間の津田梅子の女子英学塾の資金集めに奔走しました。学校の顧問にも就任します。

 

捨松は人生に対し自分にできることをしていったのです。

私は自分の生活が今とても平和で幸せであることに心から感謝しています。引用:「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著より

女性の能力が発揮できる社会を目指しました!

さらに大山捨松を知りたい方必見の著書です。

 

まとめ

明治期に活躍した会津の人には激動の人生を生きた人物がたくさんいます。悩んだり、壁にぶつかったり。そんな皆さんに大きなヒントをくれるのが、歴史上の人物。

 

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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