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津田梅子はお札になったが留学生の友人の大山捨松は日本初の看護婦学校設立

津田梅子はお札になったが留学生の友人の大山捨松は日本初の看護婦学校設立教育
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ゆず子
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5千円札の新デザインで話題となっている津田梅子。 この津田梅子の盟友と呼ばれた方が明治維新の時代に大山捨松という女性がいました。

 

TOM
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2013年にNHKの大河ドラマで放送された「八重の桜」の主演だった、綾瀬はるかが演じた「新島八重」と深い関わりがあったようです。
ゆず子
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大山捨松のことを知りたい! どんな女性だったの? 歴史によると日本女性で初めて海外留学したんだよね!?

こういった疑問に答えます。

津田梅子はお札になったが留学生の友人の大山捨松は日本初の看護婦学校設立

挫折は、根を張って乗り切る!

江戸時代会津藩の国家老だった山川家に生まれ、兄弟には東京帝大総長を歴任する山川健次郎や戊辰戦争で活躍した山川浩がいます。

この会津藩には津田梅子の盟友と呼ばれた大山捨松という女性がいました。 戊辰戦争当時、捨松は幼年でしたが、「八重の桜」で新島八重と一緒に籠城する姿が描かれていました。

今回の記事はそんな日本初の女性海外留学生の大山捨松について紹介します。

■この記事の要約
・大山捨松は12歳で日本初の海外留学生
・大山捨松人生のリスタート
・小山捨松の挫折克服法
大山捨松 プロフィール
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援を行った。
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大山捨松と津田梅子の関係

大山捨松

大山捨松ですが、津田梅子とどんな関係にあったかというと、幼少期に一緒にアメリカに留学した仲間です。二人は日本で最初の女子留学生として、岩倉具視率いる岩倉使節団の一員としてアメリカに渡り、当時としては貴重な女子教育を受ける機会を得ています。

そして大山捨松はアメリカで大学に進学し、成績優秀者として卒業します。

その後、足掛け12年に及ぶ留学を終え、1882年に帰国しました。

1900年、津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立した時には積極的に支援するなど、二人はアメリカで受けた女子教育を日本で広めるため活動していました。

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大山”捨松”という変な名前

大山捨松、幼名は山川さき。それがなぜ捨松という変わった名前になったかと言うと・・・

幼少期にアメリカに留学する際に、母親が「捨てたつもりで帰りを待つ」と送り出したのがきっかけで捨松に改名をしました。

10年以上におよぶ長期間での留学、明治維新後に遠い異国に娘を送り出した母親の寂しさが感じられます。

夫は西郷どんのいとこ

大山捨松、夫は明治の陸軍大将を務めた大山巌です。大山巌は薩摩藩の出身で、西郷隆盛のいとこです。

戊辰戦争では薩摩と長州が率いる新幕府軍と徳川御三家の会津との戦争で、新政府軍の相手はその中心にいた人物とあっては、当然、周囲の反応はおもわしくなかったようです。 (NHK大河ドラマ「八重の桜」で大山巌を演じたのは玉山鉄二、大山捨松を演じたのは、水原希子でした)

しかし、気質の強かった大山巌と留学経験のある大山捨松は強くひかれました。 当時、貴族や政府高官の社交場の場として有名だった鹿鳴館で、捨松はアメリカ仕込みの社交ダンスや振る舞いを披露。一躍、注目の的となって「鹿鳴館の華」と呼ばれていました。

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12歳 日本最初の女性海外留学生

転機は明治政府により女子留学生の募集でした。

山川家は学問で新しい時代を生き抜こうと12才の捨松をアメリカ留学に応募しました。留学期間は10年。

捨松たちは皇后にはいれつし、アメリカで学問に励み、帰国後は「帰朝の上は婦女の模範」なるようにとのことと、言葉がかけられました。国家使命を背負ての留学でした。

明治4年(1871年)アメリカに出発、捨松は人生のリスタートをきるべく出発しました。

まず到着したのは、サンフランシスコ。しかし言葉がわからず習慣も違いなれない異国での暮らしに他の2名は半年で帰国、捨松と津田梅子・永井繁子の3名は残りました。そのあと、3名は別々にホストファミリーで暮らすことになりました。

捨松は、コネチカット州のニューヘブンへ、これが人生を切り開くことになります。

捨松の人生のリスタートは外に目を向け未知を楽しむ

捨松のホストファミリーは、レオナルド・ベーコン牧師の家族でした。生活はというと毎日の英語の勉強とピアノレッスン、近所の友達と楽しいピクニックやゲーム・・・未知の暮らしは人生の喜びを教えてくれるものでした。

そして地元の高校へ進学、ここでも未知の世界と出会います・・・・アワー・ソサエティといって女性の社会活動です。

この街に住んでいる貧困家庭の女性や困った子供達のために色々な支援活動をしていて、街の人たちからも非常に高い評価を受けていました。 チャリティ・・女性だけの会・・

「いったいどんな活動なんだろう?」と捨松もアワー・ソサエティに参加、オムツを縫ったり子供服を作ったり寄付金集めをする中で、全く知らない人のために無償で奉仕するボランティア精神を学んでいきます。 人を助けるという方法で社会貢献できる!といことを学んだのです。

1878年9月 本当の家族同様に育てくれたレオナルド・ベーコン牧師の家を離れ、ニューヨクのヴァッサー大学へ入学します。

物理学・生物学・自然科学などを多く専攻し、成績は常にトップクラスでした。さらに短期間に看護婦養成学校に短期入学。ペンネームはストレンジャー(よそ者)。

捨松は遠い場所からここへ来て使命感を持って取り組んでいる、日本人のアイデンティティーを忘れず隠そうとしませんでした。 日本人の誇りを持ち続けていました。

そして11年間のアメリカ留学が終わります。

帰国は1882年(明治15年)。捨松は英語・フランス語・ドイツ語を習得し日本人女性として初めて大学を卒業、国際舞台で活躍できる才媛(さいえん)でした。 しかし、帰国後捨松を待ちかまえていたのは、旧態依然とした社会の壁でした。

とまどい・絶望・苦労・・・いったい捨松に何が? 留学先で発見された捨松が親友に送った手紙でした。

ここではすべてがアメリカと違うのです。何かをするということは不可能に近いのです。1882年12月11日 引用:「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著より

 

人はよく祖国のために死ぬことは名誉あることだといいますが、祖国のために生きることの方がもっと大変なことだと思います。1883年3月19日

男子留学生が帰国後、大学や官庁にポストを与えられる一方で、同じ国賓留学生の女性たちは何も仕事は用意されていませんでした。

明治初期の明治政府は女性は「良妻賢母」を目指す教育が主流になっていたのです。旧態依然の状態に逆戻りしていました。

さらにもう一つ悩みの種がありました。それは「お見合い」・・結婚です。24歳だった捨松は当時 日本では売れ残り、結婚していないというだけで一人前に扱ってくれませんでした。

自分の意思で人生を決められないもどかしさ、そこで捨松は!

挫折は根を張って乗り越える!

挫折は根を張って乗り越える!

そんな時、捨松に熱心に求婚する男性が現れます。陸軍卿 大山巌(いわお)は薩摩藩出身です。歳は捨松より18歳年上、すでに42歳の大山巌でした。

捨松は、「私はお国のために結婚するのではありません。自分も幸せになれ、その上お国のためにも役に立つ道もあるはずだと思います。引用:「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著より

考え抜いた末、結婚を決意します。

捨松は鹿鳴館の華

捨松はアメリカでの経験を日本の社会に生かそうと自ら行動します!

最初の舞台は鹿鳴館。明治政府が謳歌政策のために作った外国人接待所です。

明治初期 女性の活動がいちじるしく制限された時代。そんな時代に捨松がとった行動は・・・なんと!社交界で活躍することです。 鹿鳴館の華!捨松のある願いがありました。

女性の地位を向上させるためには、政府高官の婦人同士のコミュニケーションが必要だと考えました。ある時婦人たちと病院を訪れ病院の世話をするのは男性ばかりで、女性がいないことに気づきます。

・日本初の看護学校の設立

資金集めのために政府高官の婦人たちにチャリティを企画します。ボランティア活動を開始。

鹿鳴館で日本初の「チャリティバザー」を開催しました。このイベントで資金が集まり、日本初の「有志共立東京病院看護婦教育所」を設立しました

 

1904年(明治37年)日露戦争勃発がはじまると、捨松は、戦争未亡人や孤児への慰問や寄付をし、無料の託児所を作るなど さまざまな社会奉仕活動をします。

・女子教育への支援

伊藤博文の依頼で、華族女学校の設立に尽力します。さらに留学仲間の津田梅子の女子英学塾の資金集めに奔走しました。学校の顧問にも就任します。

 

捨松は人生に対し自分にできることをしていったのです。

私は自分の生活が今とても平和で幸せであることに心から感謝しています。引用:「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」久野明子著より

女性の能力が発揮できる社会を目指しました。

まとめ

明治期に活躍した会津の人には激動の人生を生きた人物がたくさんいます。悩んだり、壁にぶつかったり。そんな皆さんに大きなヒントをくれるのが、歴史上の人物。

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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