「千利休」についてもう少し説明してほしい!
千利休の「侘び数奇」とのは何なの?
こんな悩みにお答えしますね。
前回の記事で”千利休の名言【守破離】から断捨離を経てミニマリストになる方法とは?”
で少し説明しましたが、今回はより詳しく説明します。
わび茶の成!茶人千利休。茶の湯から茶道、わび茶の違い
古田織部(ふるたおりべ)はひょうきん者で、「侘び数奇」のレパートリーを拡大した。
古田織部については近日中にお話ししますね。
日本人の精神性を伝えるという「わび」「さび」の心。
侘びの精神を完成させたのは千利休です。
千利休は二人の師匠から「わび茶」精神を創った
千利休は師二人の教えに「おもてなし」の心を付け加えました。
しつらえは余計なものをそぎ落す、来客が満足するように、
心づくしのもてなしをするというのが、千利休のわび茶の精神です。
では千利休の二人の師匠は、どういう人物だったのかお話ます。
わび茶の祖「村田 珠光」の不足の美
村田珠光(むらた じゅこう)(1422ー1502)
室町時代の茶は、闘茶といって産地を競うような遊びが流行し、
器自慢をするような場でした。
そのような茶の湯に精神面を取り入れた人です。
彼は仏教界に反骨心を抱いていた禅僧・一休の弟子です。
村田珠光は、茶道の心得を書いた手紙「心の文」の中で高い茶器を集める風潮を戒め
「不足の美」を提唱しました。
高価・名器じゃなくても普段使いの茶碗や、欠けている品も、
こちらが心で補って満たせばよいというのが、わびの考えで、
村田珠光が初めて「侘び」という言葉を使ったのです。
利休の師「武野 紹鴎」
武野紹鴎(たけの じょうおう)(1502-1555)
武野紹鴎は、村田珠光の没年に生まれました。
村田珠光を心の師とし「茶禅一味」という考えを説きました。
「必要なものをそぎ落として表現する」という禅の思想を茶の湯にとりいれ珠光と同じく茶の質素化につとめ、普段使いの茶碗を茶の湯に使いました。
また、大部屋で開かれていた茶会を屏風で区切って4畳半の間で開くようにしました。
千利休のわび茶の精神
「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。
これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。
当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
そして千利休は、二人の師匠の村田珠光・武野紹鴎のわび茶の精神に、
「もてなし」の心をさらにつけ加え、器や茶室の様式も発展させました。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。
それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、
彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。
これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。
千利休はわび茶の道を大成させます。
千利休は一切の無駄を省いた「わびすき」
千利休がほとんどひとりで作り上げて、その後、弟子の古田織部はそれを継ぐのかと思ったらそのバリエーションを増やすことになりましたが・・・
ドンドンどんどん無駄をなくしていくのです。
微妙なところに窓を置き、所作のみを鮮やかに見せるため、この狭さ暗さは、一切の無駄を削ぐ。
またその場の緊張感を増す。まさにここは ”数奇の城”なのです。
千利休の極めた「侘び茶」というのは無駄を削ぎ落とした美しさなのです。
千利休の「わび茶」=「貧しさ」
侘びっていうのは 何かというと「貧しさ」のことなのです。
貧しさの中に美しさがある。
豊かさ装飾っていうのが余分なものであって、そういうものを外していくと,
実は貧しさの中に、「侘び」という美しさがあるのです。
これは難しいのですが、豊かな方が格好いいというのは誰でもわかるのです。
でも貧しい方がカッコいいっていうのは、言われれみないとピンときませんね。
それはちゃんと師匠にたいな者が伝えて、要するに貧乏臭かったら何でもいいんだろうって言うと、どんどんどんどん間違えちゃうわけです。
つまりこの”侘び数奇”っていうのは、千利休が大成したものには、正解と間違えが明らかにあるんです。その正解というのをお互い切磋琢磨して目指していくのです。
かなり知能指数が高いものだったのです。
千利休はなぜ黒を好むのか?
黒というのは喪に服す色。死を司る色。
日常でも用いる色ではない、欧米でもアジアでも古今東西、
黒が最もかっこいいとは、聞いたことがない。
なぜわざわざ黒く作るのだ?
こんなものは下賤(ゲセン)な者から高貴な者まで誰も欲しがらない。
千利休の前の昔の時代は、確かに古今東西「黒がカッコいい」っていう
文明というのはそれまでなかったわけです。
千利休は、「それが私の業にございます」「何事も続けていれば、
無駄を見つけてうるさく感じる
その無駄を省いて省いて省き込みますと最後はこの色の如くになる」、
この黒こそが私の理想とする色であり、理想の生き方なのです。
世に言う「名物」と言うはつまり価値があるというのは、
すべて外国のものとその価値を破壊して、千利休は黒が至高だと証明したい、つまり国産のものが最も優れてると証明したいのでした。
それこそが千利休の業なのです。
千利休は織田信長の舶来好みとか華やかな世界というのは理想の世界ではない。
織田信長が邪魔なのです。
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群雄割拠、下剋上の戦国時代。立身出世を目指しながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた男がいた。織田信長(おだのぶなが)の家臣・古田左介(ふるたさすけ)。天才・信長から壮大な世界性を、茶聖・千宗易(せんのそうえき=利休)から深遠な精神性を学び、「へうげもの」への道をひた走る。生か死か。武か数奇か。それが問題だ!! 引用:amazon
千利休の茶道の心得「四規七則」
「四規七則」は、茶道の心得を現す千家の言葉です。
四規(しき)
1730年刊行の『茶祖伝』の序文で、わび茶の祖・村田珠光が将軍足利義満に茶の心は何かと問われ、「四規」の心得を答えたとされています。後世に編纂された可能性もあります。
和敬静寂(わけいせいじゃく)
[和]
相手に心を開いて和ませ仲良くする。
[敬]
お互いに尊敬しあって相手を敬う。
[清]
目に見える部分だけでなく、内面もきれいに清らかにしよう。
[寂]
何事にも動じない心をもちましょう。
ここに茶道の心得のすべてがあらわされています。客をもてなす時、もてなしを受ける時、お茶をたてる時、部屋を飾る時もこの精神で臨むという教えです。
七則(しちそく)
ある日、利休は弟子に茶道の心得を聞かれて「七則」の心得を伝えました。
それに対して弟子は「そんなことは誰でも知っています」と返した所、利休は「それができるのならあなたの弟子になります」と返答したそうです。
お茶は相手が良いと思った加減でいれなさい。この「服」は一服する(飲むほう)の服で、「点て」は、茶筅でかき混ぜる具合のこと。自分好みの基準ではなく、相手の好みを第一に考えて、湯の温度や茶の量・筅の泡立ての加減を決めなさい。という意味です。
茶の湯において、お湯の沸かし加減はとても重要です。沸かし具合・お湯の温度、点前にちょうど良いお湯をつくるためには炭の置き加減が重要。美味しいお茶を沸かすために、湯を沸かす炭の準備を怠らないという意味です。
花を生けるときに、野にある姿そのままの姿のように活けなさい。しかし、華道の生け花のように技巧を加えることはせず、そこに花があるとその花が野にあるのが思い浮かぶように場と調和させて活けるようにということです。
夏は涼しくなるように、打ち水などをして、冬は囲炉裏を出すなど部屋を暖かくする工夫をして、お客様を迎え、相手の居心地を考えて部屋作りをしなさいという教えです。
学校の先生が言う「5分・10分前行動」とは少し違うようです。準備は早めにという意味ですが、心にも余裕をもってお客様に接することが大事という茶道の精神の意味合いも含まれています。
もし、その茶会の日・おもてなしの日が晴れていたとしても、突如雨が降ることはあります。その時に相手に心配をかけないように、玄関には傘を用意しておきなさい。つまり、いついかなる時も臨機応変に対応できるようにということです。
7つ目はもてなしを受ける側の心得です。同席した相手にも気遣いを怠らないよう接しなさいという意味です。その場に居合わせた人たちがお互いの立場を考えてふるまえば、そこに和やかな茶の湯の場が出来上がるのです。
まとめ
千利休は、村田珠光から100年の時を経て茶道を完成させました。
侘び・寂の心は千家の茶道の基本として、日本人の心を現す言葉として現代まで受け継がれ、私たちが生活するうえでも大切なことがたくさん含まれています。
これからも大事にしたい精神です。
最後までお読みいただきまして
ありがとうございました!
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