世界的にポピュラーなスポーツになった柔道ですが、ひと昔は柔術として流派がバラバラでした。「どうやって柔道ができたの?」
柔道を創った人を知りたい!柔道でググったら「嘉納治五郎」(かのうじごろう)という名が検索されたけど、この人物はどういう偉人なの?
こういった疑問に答えます。
柔道の技の歴史を振り返る嘉納治五郎の教えとは?
柔道の父・嘉納治五郎の「心技体一致」「力必達」とは?
時は明治の中葉、鹿鳴館時代(ろくめいかん)・・・・世の中は「文明開花」に酔いしれていました。欧米先進国の文化は無条件で賛美され、受け入れられ、逆にこれまでの日本的な伝統文化は、な内容の善し悪しを問わず、徐々に興味を引かない状況になっていました。
このような状況のなかで、ひとりの青年が不意に柔術を習い始めます。この小柄な青年は、力づくで挑んでくる乱暴者を制止できず、己の非力さを悟り、「術」をもって対処すべく柔術修行を思い立ったのです。
今回の記事では、日本の柔道の父と言われた、「嘉納治五郎」について紹介します。
・柔道への道:柔術の諸流儀の長所統合
・柔道への道:日本の尊さを残したい
・柔道への道:心技体の一致
・東京オリンピック誘致活動
柔道への道:柔術の諸流儀の長所統合
嘉納治五郎
日本の尊さを残したい
講道館柔道の誕生
心技体の一致
・修心法(精神修養)——–心
・勝負法(武術)————–技
・練体法(体育)————–体
嘉納はこの上記3つの理想を「大柔道」と言っています。
そして、周囲の理解を求めながら、ついに講道館柔道を創始したのです。
講道館柔道
しかし当初は、世間一般になかなか講道館を認めてもらえません。柔術の新興一派としてしか見なされませんでした。柔道の理想を世上に知らしめるためには、古流柔術と試合を行い、その優秀さを証明するしか方法はありませんでした。
嘉納は徹底した英才教育を門弟たちにおこないました。古流の修行によってすでに頭角をあらわしていた若き柔術家を内弟子にスカウトし、創意工夫した講道館柔道の精神と技法を”乱取り”稽古のなかで練磨させたのです。
・姿三四郎のモデルと言われている西郷四郎
・横山作次郎
・山下義昭
・富田常次郎
当時、日本武術界の最高権威であった「警視庁武術大会」で古流柔術の強者をなぎ倒し、連戦連勝の輝かしい講道館の歴史をつくったのは、おおむねこの4人でありました。
嘉納は教師としての収入と翻訳の原稿料の中から、内弟子を養い、柔道普及のための一切の費用を賄わなければいけませんでした。
嘉納は愚痴ひとつ言わず、己の理想実現のために着実に布石を打っていきます。
東京オリンピック招致活動
明治20年には伊豆の韮山に支部を開設。追々、各地に支部が開設され、ついにアメリカ進出を果たしました。
その結果、大正15年(1926年)には37,000の門人を有する団体になっていました。この急速な発展の裏には、旧来に目録→免許と進む柔術の成果を改め、級から段へ進むシステムを考案し、しかも黒帯、初心者には白帯の区分方法を採用したこと、更に普及性の高い柔道衣の開発、他流武道(空手や棒術)の研究、試合ルールの制定など、涙くましい徹底した考究の姿勢がありました。
明治42年、日本人最初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員に選出された嘉納は、昭和13年(1938年)に第12回国際オリンピック大会を東京に招致するために、カイロ総会へ出席の帰途、太平洋上の氷川丸で他界79歳でした。
晩年 嘉納は揮毫(きごう)を頼まれると、いつも決まって
「力必達」
としたためました。
「力(つと)むれば必ず達する」と・・・
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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