日本の怪談話をたくさん書いた人で、小泉八雲という人のことをご存知の方はたくさんいると思いますが・・
彼が日本人ではなかったこともきっとご承知でしょう。
なぜ小泉八雲は遠い日本まで来て、70話以上もの怪談話を書くようになったのでしょうか。
こういった疑問に答えます。
小泉八雲は何をした人?どんな人?怪談を書いた理由や左目の失明など
日本の夏の風物詩として欠かせないのが、やはりこわ〜い話の怪談やお化け。日本には「お化け」や「妖怪」「もののけ」「幽霊」など古くから歴史書や民間の物語に登場し、その存在が語り継がれてきました。その非日常的な世界観やゾクッと感じる怖さは現在でも人々を魅了し、親しまれています。
今回の記事は、小泉八雲とはどんな人物で日本に来た経緯や彼の生涯についてまとめました。
ヴェルヌの『80日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者
ニューヨークワールド通信社(新聞社)の女性記者のネリーブライという女性が、小さなカバンをひとつ持って世界1周を回ったのです。
ネリーはとくかく早く速く世界を回りたいのため、最小限の荷物にしたのです。
彼女は、ジュールベルヌの『80日間世界1周』について調べたところ、ネリー自身だったら75日間でいけることがわかったからです。
ネリーの出発前の1週間にニューヨークワールド通信社は大広告を出しました。
彼女は、ニューヨークからイギリスに旅立ちました。
いわゆる東回りの旅でした。アメリカ大陸からヨーロッパ大陸を渡りスエズ運河を渡ってインドを通って香港へと、ジュールベルヌの書いた『80日間世界1周』と同じ方向で世界1周を回りました。
ニューヨークワールド通信社は大広告を見ていた、コスモポリタン社の社長が、うちの女性記者を送ってネリーと逆の西回りで世界1周をさせようとします。
どっちが早いかの記事を載せたらコスモポリタン社も儲かると考え、ネリーが旅立った4時間後に逆のに西回りで、エリザベス・ビスランドという女性が出発しました。
彼女は生まれて初めてアメリカを出て初めてみる外国が日本だったのです。
その時に初めて日本の横浜に着いた時に、もう日本の美しさに感動します。
滞在期間が2〜3日間しかなかったのですが、日本のお土産を買い洋服も買い、すべてが美しいと大感動したのです。
このネリーとエリザベスの勝負の行方は・・・?
この本を買うとわかりますよ!
ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者
マシュー グッドマン, Matthew Goodman他
エリザベスは、日本に大感動して世界1周をしニューヨークへ戻った後、周りの人たちに「日本という国は素晴らしい、素晴らしい」と言ったため、ネリーのファンであった”ラフカディオハーン”はその話をまるまる本気に受け取り、「そんなに素晴らしい国だったら」と言って、ついには日本へ移住して日本人に帰化しました。
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旅行をバックひとつで八十日間世界一周をした女性記者ネリーブライ”
小泉八雲=ラフカディオ・ハーンとはどんな人物?
パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。
2歳の時にアイルランドに移りました。16歳の時、遊戯中に左目を失明。19歳の時、父母に代わって八雲を養育した大叔母が破産したことから、単身、アメリカに移民します。
貧困生活を体験した後、シンシナティでジャーナリストとして文筆が認められようになります。
その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住み、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。引用:小泉八雲の生涯https://www.hearn-museum-matsue.jp/hearn.html
最初は島根県立松江中学の英語教師でした。
月給は当時の100円。
ちょうどネイティブの英語教師が必要とされていた時期でしたので、需要と供給がマッチしたのでしょう。その後、ハーンは結婚します。
松江藩士の娘で名前は、小泉節子は明治元年(1868年)生まれ。元々はハーンの身の回りの世話をしておりました。
結婚後もセツは日本の文化風俗などの話題を提供し、ハーン文学のサポートをするわけですが、家計は執筆活動だけに支えられていたわけではなく、同年には熊本へ赴任することになりました。
第五高等中学校(現在の熊本大学)で英語を教えるためです。
このとき同校の校長が嘉納治五郎だったのです。
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熊本ではそのまま3年間勤務。
その後は、神戸クロニクル(英字新聞)の記者になりますが、程なくして右目が失明の危機から退職されます。
再びチェンバレンの仲介で、明治二十九年(1896年)、東京帝国大学(現・東大)で教えることになるのです。
帰化から小泉八雲に改名
東京帝国大学の英文学講師、給料は高い月給400円。自宅の市ヶ谷から毎日40分かけて人力車で通ったそうです。
ただ、高い給料に見合う中身の濃い授業でした。教え方も丁寧で学生たちの支持も厚かったのです。
しかし、皮肉にもその東大を解雇されてしまいます。
次にハーンは東大を出て早稲田大学へ就職します。
ちなみに八雲が退職した東大では、あの夏目漱石が後任になっています。
小泉八雲の『怪談』
小泉節子の語りから、後年の「怪談」に代表される物語が次々と生み出されていきました。
そして、同時に欧米に向けて日本文化を紹介する著書を数多く書きました。
これは「雨月物語」や「今昔物語」などに題材をとった再話文学で知られています。
1904年4月に「怪談」を出版。
「雪女」や「耳なし芳一」などの怪談ですね。
日本人ならあらすじを知っている話が多いですし、英語の勉強にいいかもしれませんね。
しかし、小泉八雲には死が迫っていました。1904年9月1日に心臓の発作が起きました。
そして26日再び発作が起き午後8時過ぎに自宅で死去しました。満54歳の死でした。
八雲の写真を見ると、本当に西洋人なのか疑わしいくらい和服が似合っていますから、おそらく死んだ後も日本人として扱ってもらいたかったのではないでしょうか。
ギリシアで生まれてアイルランド、アメリカ、日本……という、ほぼ世界半周の旅も終わったわけです。
来日後、友人に宛てた手紙の中でも日本を大絶賛していますし、ここまで日本に惚れ込んでくれた外国人は本当にありがたいことですね。
八雲は『怪談』の他にも当時の日本を事細かに観察した本をいくつか書いています。
明治時代のロマンを感じたい方は手にとってみてはいかがでしょう?
まとめ
私たちがよく知っている「雪女」などの怪談話を書いた小泉八雲についてその生涯を見てきました。
彼の「怪談」には独自の解釈が加わり、情緒豊かに書かれています。
日本に憧れ、帰化するまで日本を愛した小泉八雲。
それでも現在私たちは幼い頃から彼の”おばけ”や”怪談”で育ってきました。
そしてこれからも子供達たちには小泉八雲の作品に触れて欲しいですね。
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