どん底から這い上がった有名人の話を聞きたい!
それなら、高橋是清ではないでしょうか?
高橋是清って名前を聞いたことがあります。確か明治時代に・・・・・?えっ 何をした人だっけ?
こんな疑問にお答えします。
高橋是清、国民から愛された「ダルマ蔵相」 波乱の生涯
高橋是清自身もどん底から這い上がりましたが 、どん底の日本を救ったのもこの人物です。
結論:混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させました。
その後の総理大臣からも大蔵大臣就任の依頼があり計6回務めました。
今回の記事のは、そんな日本を救った偉人の高橋是清の波瀾万丈の生涯をまとめました。
高橋是清とはどういう人物か
高橋是清の生没年は1854(嘉永7)~1936年(昭和11年)。
高橋是清は、徳川幕府の御用絵師、川村庄右衛門の庶子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれましたが、生後まもなく仙台藩士高橋是忠の養子となります。
その後、成長してくと横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現在の明治学院高校)で学学びます。
しかし、1867年(慶応3年)仙台藩命で海外留学することになった彼の人生は波乱に満ちたものとなります。
高橋是清 どん底へ真っ逆さまに降り落ちる
不幸のスタートは、渡航費・学費を騙し取られた13歳のときです。
暗転の主なものをお話ししますと、
2.芸妓の“ヒモ”同然の生活
3.相場詐欺に遭う
4.鉱山開発の詐欺に遭う
アメリカへ海外留学するも 、悪徳商人から学費や滞在費を着服され、ホームステイ先で騙されて奴隷契約を結ばされ農園に売り飛ばされて働かされたのです。
これは特に衝撃的ですね。今の日本人が海外に行ってもこのようなことは起きませんね。
また、投資事業を行うためペルーへ渡航しますが失敗して帰国。
路頭に迷いホームレスになったそうです。
それでもその都度、立て直したり、そのうち手を差し伸べる人物が現れました。
高橋是清 七転び八起きのはじまり
例えば、苦労を重ねてアメリカから帰国(1868年)後、その後の人生の出発点となる誘いがかかります。
1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となったのです。
また、高橋は英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成高校)の初代校長をも一時務めました。
その間、文部省、農商務省(現在の経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍します。
また農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、1887年(明治20年)には日本の特許制度を整備したのです。
高橋是清 財政家となっていく
高橋が財政家となるスタートは40歳前です。
1892年(明治25年)、日本銀行総裁 川田小一郎に声をかけられ日本銀行に入行。そして1899年(明治32年)、46歳のときに日本銀行副総裁になります。
それから5年して、彼は日露戦争(1904~1905年)時に戦費調達の為にの外債募集の大任を担ってロンドンに渡ります。
多くの投資家が日本の敗戦を予測する中、圧倒的なプレゼン力をもって戦費調達に成功しました。
この難題に見事な手腕を発揮、13億円の調達したのです。
その後、横浜正金銀行頭取などを経て、1911年(明治44年)には遂に日本銀行総裁に就任しました。
「ダルマ蔵相」と呼ばれた高橋是清
高橋が、「ダルマ蔵相」の愛称で慕われていました。
第一次山本権兵衛、原敬、田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田裕介の各内閣で蔵相を歴任していました。
加藤高明内閣では農商務相、そして立憲政友会総裁、さらに1921年(大正10年)には内閣総理大臣を務めています。
高橋は、昭和2年(1927)の金融危機を42日間で鎮静化し、昭和6年(1931)の世界大恐慌では、的確な措置で世界のどの国よりも早く、日本を脱出させ、立ち直らせました。
何より高橋の登場は、当時の国民に
「ああダルマさんが出てきた。もう大丈夫だ」
という安心感を与えたといいます。
高橋は歴代日銀総裁の中で唯一、その肖像が日本銀行券に使用された人物です。
1951~1958年にかけて発行された五十円券。それだけ、国民の間で人気が高かったからなのです。
これほど人々から信頼された大蔵大臣は、高橋の他には見当たりません。
「ダルマ蔵相」高橋是清 暗殺される
1936年(昭和11年)、二・ニ六事件で高橋は暗殺されました。
彼を殺害すべく高橋邸を襲ったのは、近衛歩兵第三連隊の陸軍中尉中橋基明だったのです。
邸内に兵数十人を率いて押し入った中橋を、高橋は「馬鹿者!」と言ったとも、「何をするか!」と怒鳴ったともいわれています。
83歳の老人に対し、中橋は拳銃七発を浴びせて即死させたのです。
まとめ
麻生財務大臣は 「デフレ不況を好転させた経験者は、現在いません。ならば我々は、歴史に学ばなければいけません。一番は高橋是清です」と語り、注目を集めました。
高橋是清はこう語っています。
「いくら機会を捉えなければ立身出世しないとはいえ、これを自分から作るべきではない。自分で機会を作るということになると、機会を作るためには、時にあるいはその手段を選ばぬというようなこともしかねない。こういうことまでして、機会を作って立身出世をしたからとて、なんら価値のないものである」
「機会は決して作るべからず、自然と自分の前に来たところの機会を捉えなければならぬ」
高橋の「自分は運がいい」と考える姿勢は、与えられた機会を幸運に変える秘訣のようにも思えます。そしてそれは大蔵大臣・高橋是清だけでなく、誰の生き方にも応用できるかもしれません。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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