『やりたいことが見つかんないって言うけども、当たり前じゃないですかね。やってみてでしょ、これ。無駄なことばっかやってた方がいいです。』
人生に対しては良い意味で適当だと仰るのは、バラエティから音楽番組の司会まで幅広く活躍するタレントのタモリさん。
説得力もあり、どこか肩の力が抜ける心地いい言葉ではないでしょうか!
やりたい事が見付からないからと焦る必要は無いのだ。いろいろと迷い、やってみてこそ、やりたい事は見付かるものなんだと教えてくれる名言です。
タモリさんは今でこそ超人気有名人ですが、実は脚光を浴びるまでに時間がかかった…という遅咲きのスターですよ。
タモリさんはどうやってスターに上り詰めたの?
こういった疑問に答えます。
タモリも!遅咲き人生のランキング1位
バカボンパパ名言?口癖?「これでいいのだ!」数々のギャグマンガを生み出した、漫画家赤塚不二夫、当時タモリの才能を高く評価していた赤塚不二夫らの後押しによって芸能界入りしました。
今回記事はそんな、お笑いタレント、司会者として活躍し続けているタモリさんと漫画家の赤塚不二夫さんの関係をまとめました。
タモリは赤塚不二夫との出会いが転機
タモリは早稲田大学を中退後、郷里の福岡に戻ってサラリーマン生活を送ってました。
昭和50(1975)年、お笑いの道に進む決心をして再び上京する。その数年前には、福岡に公演で訪れたジャズミュージシャンの山下洋輔や中村誠一らと知り合い、一緒に遊ぶ仲になっていました。
「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパで上京し、タモリさんらが根城にしていた新宿のバーバー「ジャックの豆の木」で常連客のリクエストに応じて即興芸を次々と披露、デタラメな外国語などを持ち芸とするタモリの噂が広がっていきました。
「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパで上京し、バー「ジャックの豆の木」で常連客のリクエストに応じて即興芸を次々と披露すると、常連客を熱狂の渦に巻き込んだタモリさんは、以降、福岡で生活しつつ、1ヶ月に1回カンパの資金で上京し、即興芸を披露するということを続けました。
上京も、その芸を見たがった店の客らがカネを出し合い、東京までの新幹線の切符をタモリに送ったのが直接のきっかけでした。
タモリさんは、上京した当初は、サックス奏者・中村誠一さんの2DKの都営住宅に居候するも、タモリさんのお母さんから電話がかかってきた時に中村さんが取ったことで、中村さん宅で居候していることがお母さんにバレ、潔癖症だったお母さんがタモリさんが自分の見知らぬ男と一緒に住むことに反対したことから、その後は、知人の家を転々としていました。
そんな中、1975年の夏、タモリさんがいつものように、バー「ジャックの豆の木」で即興芸を披露していると、漫画家の赤塚不二夫さんが見に来ている事に気づきます。
即興芸が終わると、赤塚不二夫さんから、
君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから私のマンションにいろ。
と、声をかけられます。(赤塚さんは、タモリさんの芸に驚き、「こいつは絶対に九州に帰してはいけない」と思われたそうです)
タモリは赤塚不二夫の高級マンションで一人暮らし
しかし、実際にはタモリさんは、福岡に帰りたかったため、はじめは断っていたのですが、それでも、赤塚さんから、タモリさんの芸をもっと見たいと熱心に引き止めらます。
赤塚さんが当時住んでいた冷暖房完備の4LDKの高級マンション。
タモリは運よくこの高級マンション住まわせてもらいます。
赤塚さんの服を勝手に着て、高級車のベンツも乗り放題、洋服も着放題、外国産ビールも読み放題、さらに、月3万円近くのお小遣いまでもらい、毎晩のように友人を呼んでは宴会を開き、冬は使っていない部屋も暖房をつけっぱなしにし、暑くなっても暖房を消さず、逆に冷房を入れるなど、贅沢三昧の生活を送ったのだそうです。
タモリは赤塚不二夫流OJTを受けて成長した
タモリさんは、贅沢三昧の生活をしていましたが、赤塚さんについては、「あの赤塚不二夫だから、別に住む場所があるのだろう」と勝手に思い込み、遠慮なく贅沢な暮らしを続けていました。
タモリさんは、半年ほど経った頃、この事実を知りますが、そのままの生活を続けました。
(この罰当たりが!)
赤塚さんは、そんなタモリさんのことを、
あれがなかったら、今のタモリはないんだよ。普通にペコペコするような奴だったら、こうはなってなかった
と語っています。
タモリは、赤塚不二夫から「人とのふれあい」を学ぶ
タモリさんのテレビ初出演も、赤塚が企画した番組でした。
それを見て、赤塚さんと旧知の仲だった黒柳徹子が「あの人は誰!?」とあわててテレビ局に電話をかけてきて、彼女の番組への出演が決まる。
芸能界にデビューした当初は、それまでどおり赤塚や仲間たちと夜な夜な遊びまわっていたタモリだが、やがて仕事が徐々に入ってくるようになると、目白のマンションか
赤塚はたびたびタモリにさりげなく示唆を与えていました。
タモリさんはあるとき、赤塚さんに「おまえ、自分のことだけ100%やればそれでいいと思っているだろう」と指摘されたことがあったそうです。
赤塚さんは、
「テレビには共演者がいるだろう? 共演者と触れ合うことで相手がどう変わるか、自分がどう変わるかが面白いんだよ。おまえはそれをやってない」と言います。
それからというもの、タモリさんは赤塚の言ったことを心がけているうちに、人と触れ合う仕事が多くなっていきました。
赤塚不二夫とタモリは、師弟でも友人でもないが、一緒にいればとことんまで面白いことを追究する“同志”と呼ぶのが好ましいかもしれません。
正月休みに軽井沢へ出かけたときには、「雪景色ばっかり見てても面白くないね」と、二人して雪のなかへ素っ裸で飛び出し、タモリがイグアナのモノマネをしたかと思えば、赤塚は木に登り、ムササビになったつもりで隣りの木へ飛び移ろうとしたところ、「ムサッ……」と言いかけたまま落下したといいます。
タモリと赤塚不二夫の告別式
《赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです》
平成20(2008)年8月7日、その5日前に亡くなった漫画家・赤塚不二夫(享年72)の告別式。
タモリ(当時62歳)は恩人への弔辞をこのように結びました。
このとき、タモリは紙を手に弔辞を読み上げたが、じつはそこには何も書かれていなかったことがあとでわかり、アドリブで語っていたのかと話題を呼びました。
弔辞の最後、タモリは《私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです》と断ったうえ、《しかし、今お礼を言わさせていただきます》と、冒頭にあげた言葉で結んだのでした。
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