日々、仕事に取り組んでいると間違えてしまったり失敗してしまうことってありますよね。
毎日同じ作業を繰り返す、いわゆるルーチンワークは慣れているだけにテキパキとこなす一方で油断して間違えてしまうことがあります
。
私も、失敗しないよう集中して仕事に取り組むようにはしているんですが、たまにやらかしてしまうことがあります。
ケンタッキー・フライド・チキン創業者としてご存じの方も多いと思います。そうです。ケンタッキーの店の前に立っているおじいちゃんです。
ケンタッキー のカーネルサンダース は失敗から這い上がったおじいちゃん
日本でも「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」として親しまれており、優しそうな笑顔に白いひげとメガネが印象的な像でおなじみのおじさんです。
今回はどん底から何度でも這い上がる不屈の精神をもったカーネル・サンダースです。
カーネル・サンダース生い立ち
ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders、1890年9月9日 – 1980年12月16日)は、アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。カーネル・サンダース(Colonel Sanders)として知られている。
「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍の階級(大佐)でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)である。
日本では「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。
父親はサンダースが6歳のときに亡くなり、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てた。サンダースは10歳から農場に働きに出ている。学校は14歳で辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いた。
1906年、16歳のときに年齢を詐称して陸軍に入隊し、キューバで勤務した。彼の軍隊における経歴は一兵卒として終わっている。1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々とした。30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになるが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験した。
このケンタッキー・フライド・チキン事業が成功するまでに40以上の職を転々としたそうです。
なかにはケンカしてクビになったこともありました。
自分でも事業を何度か立ち上げますが、そこでもことごとく失敗に終わります。
70歳近くなったカーネルは、車1台で全米中を走り回り、レストランなどでフライドチキンのレシピノウハウを実演してフランチャイズ契約を得るための旅に出ます。
この営業活動でも断られ続け、その数なんと「1009回」にも達したそうです。
負けてもへこたれない不屈の精神がケンタッキー・フライド・チキンを作っていったんですね。
サンダース・カフェとフライドチキン
1930年、サンダースはケンタッキー州の コービンに移り住み、ガソリンスタンドの経営を始めた。道を尋ねに来た程度でも誠意のある接客をしていた。
1930年6月、ガソリンスタンドを利用した客から言われた一言から、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始める。サンダースはガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼務。州の南北を貫く幹線道路に面した店は繁盛し、規模を拡大した。1935年には「州の料理への貢献」が評価されて、ケンタッキー州の知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられた。
「サンダース・カフェ」は、1937年にはモーテルを併設した142席のレストランに成長。1939年には店舗が火災に見舞われるなどの災難もあったが、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建した。現在この店舗は博物館となり、アメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。
「サンダース・カフェ」の目玉商品がフライドチキンであった。1939年に導入された圧力釜を用いた「オリジナル・フライドチキン」の製法は、以後70年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれている。
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KFCのフランチャイズ化
サンダースが、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えて売れたチキン一羽につき5セントを得るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めたのは、1952年。
この年、ユタ州ソルトレイク市が最初のフランチャイジーとなり、フランチャイズ一号店が開業した。ブランド名をKFCハーマンによって提案されたものである。
1955年、コービンの町外れを通過する州間高速道路が開通すると、車と人の流れは変わり、国道沿いのサンダース・カフェには客が入らなくなった。
サンダースは維持できなくなった店を手放したが、負債を返済すると手許にはほとんど残らなかった。
以後サンダースは、フランチャイズビジネスの普及に努め、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回った。
1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げた。
65歳からの大逆転劇
サンダースの人生は波乱がつきものです。不屈の闘志を失わない彼でしたが、思いもかけない大切な物・人を失ってしきます。
1)14歳になると学校を退学し、農場、市電の車掌を皮切りに、働きに働きます。1年ほどの軍役を経験し、40以上の職を転々
2)ガソリン給油のほか、サービスとして窓ガラスの清掃や、ラジエイターの水やタイヤの空気圧の点検を実施し、ケンタッキー州で評判
3)絶妙のスパイスとハーブの調合に辿り着き、最新式の圧力鍋で今日私たちが味わうケンタッキー・フライドチキンを完成させます。しかし、喜んだのも束の間、なんと火事で店は全焼、また成功の果実を失いました。
4)57歳のとき、長年連れ添ってきた妻から離婚を切り出され離婚
5)2年後にレストランの従業員と再婚しました。サンダースの仕事に理解が深く、夫唱婦随でレストランの経営をおこないます。59歳で新妻を得たサンダースは、レストラン経営に邁進します。
追いつめられたサンダースですが、不屈の闘志に火がつきます。
65歳から不屈の闘志で活路
と言っても、今回ばかりは現実の壁が立ち塞がりました。資産もない65歳の老人に、金を貸してくれる銀行などありません。しかし、サンダースは、己を奮い立たせます。
このレシピを金に変えようと考えつきました。「オリジナルスパイスを提供し、調理法を伝授して契約料を受け取る」というビジネススキームです。
サンダースは高圧釜とスパイスを車に積み込み、アメリカ中のレストランを巡回。
車中で寝泊まりし、試作品のフライドチキンが1日の食事。
しかし粘り強くフライドチキンを売り込む。
レストランの従業員たちに試作品を食べてもらい、その店の調理場を借りると、フライドチキンを無償で客に提供しました。
こうした地道な営業活動により、サンダースのフライドチキンは評判を呼び、契約を求めるレストランが増えていきました。
こうしてケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ化に成功したのです。
私にはたった二つのルールしかなかった。
できることはすべてやれ。
やるなら最善を尽くせ。これが何かを達成する感覚をつかむ唯一の道だ。
私がやったことなど、誰にもできる事だ。
ポイントはただ一つ。
心から『やろう』と思ったかどうかである。
心が思わないことは、絶対に実現できない。
さいごに
65歳からの闘志によって成功はもたらされました。ケンタッキーフライドチキンへ行ってサンダース人形に一礼したくなりますね。
大変に親しみやすいキャラクターですが、サンダースの生涯は決して平坦ではありませんでした。転職、倒産、離婚、人生の辛酸を舐め、挫折どころか死を選んでも無理からぬ体験が目白押しです。おおよそ人間が経験し得るあらゆる不幸に見舞われたサンダースが、いかにして「カーネルおじさん」へと変貌し、人生を逆転させました。
少しでも参考になれば嬉しいです。最後までお読みいただきありがとうございます。
応援お願い致します。
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