坂本龍馬という歴史人物についてご存知ですか?
大河ドラマや歴史書籍で、名前は知っているけど、
坂本龍馬は何をした人なの?
わかりやすく教えて!
こんな疑問にお答えします。
江戸時代から明治時代の変わり目に、
とても大きな業績を残したすごい人物です。
数多くのエピソードが残されている事からも、
今でも多くの人に人気がある人物なんですよ。
坂本龍馬は何した人?わかりやすく解説すると英雄と呼ばれドラマでも幕末の偉人として歴史的人物
この記事では、坂本龍馬がどんな人だったのか? 何をしたのか? またこの坂本龍馬から何を学べるのか?など小学生でも分かるように分かりやすくまとめてみました。
- 坂本龍馬がどんな人物で何をしたのかわかります。
- 坂本龍馬の行動からあなたが生きるヒントをもらえます。
坂本龍馬はどんな人?
坂本龍馬はどんな人だったのでしょうか。
坂本龍馬は1836年に、土佐藩の郷士(下級藩士)の家に生まれます。
実家は商売を行っていた裕福な家庭で、お兄さんが一人とお姉さんが三人いました。
1862年(文久2年)になると、江戸幕府の偉い人だった勝海舟(かつかいしゅう)の弟子になり、そこで蒸気船・軍艦の操作を学びました。この経験をもとにのちに長崎に亀山社中(かめやましゃちゅう)という日本ではじめての会社を作りました。亀山社中は後に海援隊(かいえんたい)と呼ばれるようになり、この事から龍馬を日本ではじめての社長であると言う人もいます。
坂本龍馬へ勝海舟や幕末の開明派からどうして援助があったのか?
そして次に龍馬は、徳川幕府に攻撃されていた長州藩(現・山口県)を救うために、薩摩藩(現・鹿児島県)の西郷隆盛に提案し、犬猿の仲の2つの藩が仲直りするために尽力しました。
この偉業を「薩長同盟(さっちょうどうめい)」と呼ばれています。
1867年、龍馬は明治時代を迎える前に暗殺され亡くなります。
なぜ龍馬は殺されたのか?は、明確な理由はわかっておらず、歴史関係の多くの方がそれぞれ考えを発表し論議しています。
坂本龍馬の年表
・1835年(0歳)
土佐国(現・高知県県)に生まれました。
・1853年(19歳)
剣術修行のため江戸に行き、千葉定吉(小千葉)道場に入門。
ペリーの黒船が来航し、幕末期の動乱が始まります。
・1861年(27歳)
土佐勤王党に入党しますが、攘夷(異国をやつける)を目標に掲げる勤王党に疑問を持ちます。
・1862年(28歳)
土佐を脱藩し、徳川幕府 幕臣の勝海舟の弟子となります。
翌年、徳川幕府が設立した海軍操練所に入ります。
・1865年(31歳)
薩摩藩の援助で長崎に、日本で初めての会社、亀山社中を設立します。
・1866年(32歳)
薩摩藩と長州藩を仲直りさせ、薩長同盟を成立させます。
京都の寺田屋で幕府の役人に襲撃されますが、恋人・お龍のお陰で命拾いします。
・1867年(33歳)
土佐藩の参政であった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と会います。
土佐藩との関係を深め、亀山社中は海援隊と名を改めます。
新しい日本の骨組みでとなる「船中八策(せんちゅうはっさく)」を作ります。
また大政奉還(たいせいほうかん)の策を後藤象二郎に伝えます。
京都滞在中、刺客の襲撃を受け暗殺されます。
33歳という若さで暗殺された坂本龍馬ですが、その一生の中で明治時代の基礎となる業績を数多く残しました。
坂本龍馬から学べること
坂本龍馬の仲間を集めて味方にする強力な力
「仲間をつくる力は」です。
この問いに答えることができるのは、坂本龍馬から学ぶことが一番の早道ではないかと思います。
1.気づいたら、すぐに行動せよ!
多くの経験を重ね、そこから気づきを得て、すぐに行動に移す。
経験を積んで考えるだけではなく、直ぐに動く。
このことの大切さを龍馬から学ぶことができます。
2.いいと思えば、すぐに取り入れる
シンプルに言います。「いい」と思えば、素直に人の意見を取り入れ、自分の考えにし、その人も自分の応援者にしていまう。
3.仲間から学び、共に成長する
友人や色々な人から刺激を受けながら、足りないものがあると思えば すぐに学ぶ。
仲間が動けば、すぐに行動する。
「まだ若い」「もう歳だ」「お金がない」「人脈がない」「経験が足りない」などと自分にリミッターをかけ、やらない理由をつくらないこと。
このようなことを考えているうちに、どんどん時間だけが過ぎ、せっかくの自分の可能性を殺してしまう。
5.熱を受け取り すぐに反応する
友人や知り合った人の思いや、その人たちの持つ熱量に注意をはらい
その熱に反応する。
熱を感じたら考えのスケールを広げ、すぐに反応する。
この柔軟さとスピードも仲間をつくる秘訣です。
6.決断力と行動力をつける
固定概念や「こうしなければならない」という縛りをなくす。
自由にできる環境作りと固定概念を持たないことが行動力を与えます。
「三方よし」は日常と坂本龍馬の和魂洋才から学ぶ
クローバリズムの認識、「日本人である」「日本国に責任を果たす」「国際社会に対しても責任を果たす」
この3つのローカル・ナショナル・グローバルの要素を同時に備え、併せて共に進行させるような同時性が必要になっているのが現在です。
まず龍馬がやったことは「ナショナルレベルにおける事業」です。
「三方よし」をモットーに、自らの利益のみを求めることなく、多くの人に喜ばれる商品を提供し続けました。そうして少しずつ信用を獲得していったのです。
さらに龍馬は利益が貯まると無償で世間の為にも大いに貢献しました。
つまり三方よしとは、「商いは自らの利益のみならず、買い手である顧客はもちろん、世の中にとっても良いものであるべきだ」という現代の経営哲学にも通じる考え方なのです。
海援隊を起業した坂本龍馬は希望の土地 長崎で夢の実現を目指した
坂本龍馬の先生たち
勝海舟は「ペリー祭来航への意見の建白」で大胆な建白を提出しました。
「積極的にこちらから貿易して、その利益で協力な海軍を作れ。人材を登用して、旗本の困窮を救うために西洋化した軍隊にせよ。そのための大砲と火薬の工場を作れ。西洋学問の学校を作れ」という内容が、海防掛・目付の大久保一翁の目に留まりました。
勝海舟が親交のあった人たちのエピソードを書いた「追賛一話」、その中に坂本龍馬との出会いが記載されています。剣客・千葉周太郎を伴い訪問しました。当時は開国か攘夷かを巡り国論が2分されていた時代でした。咸臨丸でアメリカに行った勝を斬ろうと攘夷派の龍馬がやってきました。
ところが国を開き、海軍を持つことの重要性を聞いて、龍馬は自分の考え方が凝り固まっていることに気づいました。そして龍馬は勝の弟子になりました。
2年弱の経験と人脈が薩長同盟などの大きな偉業に繋がって行くのでした。
そして龍馬は、勝の指導で大久保一翁など幕府の大物たちと次々に会いにいきます。
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坂本龍馬の名言からひもとく夢と遺志を継承したものたち
坂本龍馬の妻・お龍が残した回想談の中に、このようなものがありました。
「北海道ですか? あれはずっと前から海援隊で開拓すると言っておりました。私も行くつもりで、北海道の言葉をいちいち手紙へ書きつけて毎日稽古しておりました。ある日望月さんが白の陣幕を作って来ましたらから、戦争もないのに陣幕を造ってどうすると聞けば、北海道は義経を尊むからこの陣幕へ笹竜胆(胆)の紋を染め抜いて持っていくと言っておりました。
引用:「千里の駒後日譚」
龍馬の妻・お龍の記憶通り、龍馬はかなり早い時期から蝦夷地(現・北海道)の開拓に心を傾けていました。
海援隊の同志と北海道の地へ渡り、開拓を志す龍馬の視界の中には、北地での防衛活動の実践などもあったようです。龍馬は千葉道場の千葉重太郎から蝦夷地の話を聞き、大いに刺激されたものと思われます。
まとめ
坂本龍馬がどんな人だったのか? どんなことが学べるか?をわかりやすいように解説しました。
龍馬の業績をシンプルに考えると、
①新勢力を作った
②旧勢力を守り平和的に革命を行った
③新しい国を作る
としたと言えます。
幕末という時代を駆けぬけた龍馬が、
もし暗殺されずに明治を生きていたらと考えると、とてもワクワクして想像が尽きませんね・・・。
最後までお読みいただきありがとうございました。
応援お願い致します。
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