『サンドイッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』で
「胸アツ戦国武将ベスト20」を見たけど、
戦国武将No.1の立花宗茂をもっと詳しく知りたい!
そんな悩みにお答えします。
「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。
幼い頃に表れた性質は、教育を受け、様々な経験を積んでも根強く残ります。
正直なところ、人はいくつになっても変わらないということです。
日本の歴史に目を向ければ、天下人になるほど出世した戦国武将には、
大抵、神懸った幼少期の出来事が語り継がれることが多いようです。
ほどほど名の知れた戦国武将であれば、アッと驚く出来事のひとつやふたつはあります。
今回、ご紹介する戦国武将は、他の戦国武将とは一線を画するのかもしれません。
その戦国武将とは、筑後(福岡県)柳河(柳川)藩主「立花宗茂(たちばなむねしげ)」。
天下人である豊臣秀吉が「東の本多・西の宗茂」と称賛した戦国武将でした。
それでは早速、立花宗茂をご紹介していていきます。
立花宗茂の生い立ち
「立花宗茂」を語る前にまずは、その特異なバックグラウンドを説明します。
じつは、立花宗茂には「強烈な2人の父」がいました。
彼らは、共に九州の戦国大名「大友氏」の宿老家の出身でした。
1人目は、実父である「高橋鎮種(しげたね)」。享年39。
法名である「高橋紹運(じょううん)」の方が有名かもしれない。
じつは、「高橋」という氏は、生まれ持ったものではなく、
大友氏に謀反を起こし追放された「高橋鑑種(あきたね)」の氏を承継しているのです。
その後、筑前(福岡県)の宝満城と岩屋城の城主になりますが、
当時の九州は、まさに群雄割拠の時代でした。
九州南部より「島津氏」が勢力を拡大しているなかで、高橋鎮種もその犠牲になりました。
壮絶な最期を遂げたのです。
そんな高橋鎮種の嫡男として生まれたのが、今回の主人公である立花宗茂です。
勝敗に関係なく、誇り高く戦うやり方は実父似といえるのかもしれません。
一方、もう1人の父は養父(義父でもある)の「戸次艦連(べっきあきつら、へつぎ)」。享年73。
コチラも、「立花道雪(どうせつ)」の名前の方が有名かもしれません。
大樹の下で涼んでいるところで落雷に遭い、足の自由が利かなくなったといいます。
その稲妻を一刀両断したとの逸話も残っているようですが。
そんな経緯とこれまでの不敗の戦績も合わさって、「雷神」や「軍神」などと呼ばれることになったのです。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
「氏」が異なるのは、高橋鎮種と同じ経緯を持津からです。
主君である「大友宗麟(そうりん)」の命により「立花鑑載(あきとし)」を攻め落とし、
結果的に「立花家」を継いだ形になり立花城主となるのです。
そんな立花城に招かれたのは、宗茂が幼年の頃でした。
道雪には男の子がおらず、彼自身かなりの高齢になりつつある事情が背景がありました。
そんな折、ある出来事をきっかけに、道雪は宗茂を養子にしたいと考えました。
「艦連(道雪のこと)は家臣に命じて、罪人を自分の前で討たせた。不意のことであったから、宗茂はどのように感じたかと思い、試しに宗茂の胸に手を入れてみると、少しもはげしい動悸がしていない」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
この子には、豪傑の資質がある。道雪は、そう思ったといいます。
こうして、立花宗茂は2人の強烈な父を持つに至るのでした。
立花宗茂の幼児期
家臣と民に愛され、諸大名からも一目置かれた戦国武将「立花宗茂」。
そんな宗茂の幼少期は、生まれつき強健で、4、5歳のときは7、8歳の子どもに見えたといいます。武芸のみならず、聡明で弁舌にも優れていましたので、「スーパーデキすぎくん」は、
もう既にこの頃には健在していたようです。
加えて、先ほどご紹介した逸話のように、宗茂は、どのような場面でもなかなか
動じない人物だったといえます。
当時、宗茂は8歳でしたが、見せ物があったため見物していると、何やら一部が騒がしい。
偶然にも、見せ物の最中に、群衆の中で争いごとが起こり、しまいには口論から殺害にまで発展しました。
現場は大混乱状態。見物人らも四方へと逃げ去っていきます。
そんな中、正反対にまるで宗茂は慌てませんでした。
「今日の見せ物はこれで終わったの?」……。やだな。
宗茂は当時8歳。
数え年だから、現在ならば小学校低学年あたりの子どもですね。
動じないというよりも、もう上司ばりの風格がありました。
『たといどんなに恐ろしいことが起きたとしても、どうして見せ物がまだすっかり終わってしまわないのに、ここを立ち去る必要があるのか』と全然動顚(どうてん)した風がない。そうこうしている間に騒ぎも静まったので、人びともまた戻ってきて、見物しはじめた」
立花宗茂と豊臣秀吉
その後、周囲の期待を背負って成長した宗茂。
大友氏に全力で尽くし、九州平定では豊臣秀吉に賞賛されるほどになります。
その武功で柳河(柳川)に13万石余りを与えられますが、このまま順風満帆な人生を歩むと思ったのもつかの間。秀吉は死去。
ただ、秀吉の死後も、その「義」に応えようとするのが、立花宗茂。
慶長5(1600)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」での場面。
娶った道雪の娘「誾千代(ぎんちよ)」や家臣らは、もちろん、徳川家康率いる「東軍」を推奨されますが、生前の秀吉の恩義を忘れられない宗茂は、反対を押し切って「西軍」につきます。
この結果、敗者側についた立花宗茂は、案の定、所領を没収されることになったのです。
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立花宗茂と徳川家康
立花宗茂は、誰もが認める人格者。時代が、そう簡単に見捨てるはずがありません。
のちに陸奥棚倉(福島県)に1万石を与えられ、「大坂の陣」後には、旧領の柳河(柳川)へと返り咲きます。
「東軍」へと味方した豊臣恩顧の戦国大名が、改易などの憂き目にあう一方で逆に、立花宗茂は、時間がかかったが、少しずつ徳川家から信頼を得ます。
こうして、立花宗茂は。戦国時代に比類なき「名将」として、その名を残すのでした。
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まとめ
最後に。1つ疑問があります。
「三つ子の魂百まで」
人は、大人になっても、そうそう変わらないのであれば、
既に人格者たる立花宗茂には、別段、教育など不要であったのではないでしょうか?
予想外にも宗茂は、自身の幼少期について、こんな話を残しています。
「わしが九歳のとき、道雪と一緒に飯を食ったおり、鮎をむしって食ったところが、道雪はそれをみて『武士のやり方を知らない。女のようなやり方では役に立たぬ』と、ひどく叱られたことがある」
どのような人間に対しても、決して教え導く必要がないワケではありません。
生かすも殺すも、全ては環境次第。
光り輝く「原石」を、どう育てていくかも重要です。
立花宗茂に関わる全ての人たちの厳しい愛情が、彼を、さらなる人格者へと高みに引き上げたのでしょう。
名将「立花宗茂」の原点は、生まれながらの資質と、深い愛情にあったのです。
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少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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コメント
🩶
Beautiful.