スポンサーリンク

メキシコと日本の友好は400年間徳川家康時代から続く【日墨友情】

教育
スポンサーリンク

メキシコと日本の友好が400年も続いているそうです

 

TOM

江戸時代初期にこの近くで当時スペイン領だったメキシコの船が漂着し、それを救助したことからメキシコ、スペインとの交流が生まれたとのことらしい・・・

 

ゆず子

「でも400年前にどうやってメキシコと日本の友好が始まったの?」

こういった疑問に答えます。

 

メキシコと日本の友好は400年間徳川家康時代から続く【日墨友情】

徳川家康も認めた、日墨友情ストーリー

今回の記事では、400年続いたメキシコと日本の友好への物語を紹介します。

本記事の要約

・メキシコ大統領のお礼

・海女さんの大活躍

・日本初の対等条約

 

スポンサーリンク

メキシコ大統領のお礼

昭和53年(1978年)11月1日、「369年も昔のお礼に、メキシコ大統領がやってくる」。

当時のメキシコ大統領ホセ=ロペス=ボルティーリョ氏は、ペリコプターで降り立ったのは、千葉県の御宿。太平洋に面した、漁業の盛んな集落であった。

 

369年前を逆算すると、慶長14年(1609年)にあたります。

天下分け目の戦「関ヶ原の戦い」から9年が経過しています。この年、ルソン(現・フィリピン)の前総督ドン=ロドリゴを乗せたスペイン船「サン=フランシスコ号」が、マニラからメキシコのアカプルコを目指して航海中でした。

この時代、ルソンもメキシコも、スペイン=イスバニアの植民地であり、ロドリゴはメキシコ生まれのスペイン人でした。

ところが、「サン=フランシスコ号」は暴風に遭遇し、日本の房総半島まで流されたあげぐ、御宿町で岩礁に乗り上げて座礁し、沈没する羽目になったのです。

乗組員は全部で373名、全員が溺死してもおかしくない状況下、御宿の村人たちは総出で、彼らの救出をしました。

スポンサーリンク

海女さんの大活躍

この時、一番救助に活躍したのが、海女さんたちであったといいます。

彼女たちは荒れ狂う海の中へ飛び込み、自分たちよりも身体の大きい外国の人々を、瀕死の遭難者たちを、必死に担いで泳ぎながら運び、自らの体温で温め、幾度も海を往復しつつ、多くの乗組員を陸にあげて助けました。

命がけで助けた外国の人々に、御宿の人たちは「生きていてよかった、よかった」と涙を流しながら喜び合い、女性たちは夫に許しをもらって、自分たちの綿入りの着物を乗組員に与えたといいます。

また質素であったあが、米や茄子、大根などの食べ物も、惜しみなく分け与えました。

昼夜を捜索と救出活動は、317名を救い出しました。も

御宿の人たちは、決して歴史には名前が刻まれることがない、本当に名もなき人々でした。

命が助かった遭難者たちは、その後、江戸(現・東京)に丁重に招かれ、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁しそして、駿河では神主「徳川家康」に謁見を許されました。

ロドリゴたちは1年近く日本で生活し、その間「サン=フランシスコ号」を模倣しながら、家康の外交顧問であった”三浦按針(あんじん)(イギリス人ウィリアム=アダムス)”が建造した、120トンの船をプレゼントされ、翌年メキシコへ向かい、無事に祖国へ帰り着きました。

この時、生きてメキシコに戻った人々は

「乗組員のまさに死なんとしているところを、皆様の祖先の人間性ある方々のおかげで助けていただきました。(中略)最近は人間性に欠ける人がおりますが、この時の素晴らしい人間性に満ちた村民に心から敬意を表します」

と、当時のメキシコ大統領ホセ=ロペス=ボルティーリョ氏は369年も昔のことをわざわざ来日して、謝辞を述べてくれました。

 

スポンサーリンク

日本初の対等条約

幕末にかけ、治外法権、関税自主権がないとなどと、幕府が欧米列強と結んだ、不平等条約に頭を抱えていた日本政府に「それはお困りでしょう・・・」と、かつての感謝の気持ちから、日本国がアジア以外の国とはじめて結ぶことになる、対等条約に調印してくれたのがメキシコでした。

明治21年(1888年)11月30日、日墨修好通商条約は締結されました。

条約調印は、アメリカで行われましたが、この時の日本代表は陸奥宗光(坂本龍馬の海援隊出身)でした。

もし、この対等条約がなければ、その後も欧米列強との条約改正はもっと厳しい不平等であったでしょう。

 

少しでも参考になれば嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

関連記事

コメント