オランダ出身の有名な画家といって思い浮かぶのは
ゴッホですね!
ゴッホはどんな人だったのでしょうか?
ゴッホの人生は?経歴は?
こういった疑問を解決します。
ゴッホと言うと、「ひまわり」などが有名で、
油彩画を専門に描いているようなイメージがありますが、
練習として水彩画を良く描いていたようです。
こぎつけじゃあないけど、水彩画といえば、
柴崎春通さん!
パパの記事にも柴崎おじいちゃんの紹介をしているね!
ゴッホのひまわりは水彩画で練習していた!あなたも描けるゴッホのひまわり
フィンセント・ファン・ゴッホは、19世紀後半に活動したオランダ生まれの画家です。
多くの名作を残したゴッホ、一般的には、油彩画「ひまわり」の作者として知られており、フェルメール、ダ・ヴィンチ、ピカソなどと並び、世界でも非常に人気のあるアーティストの1人です。
意外と知られていませんが、その人生は37年間と決して長くはなく、画家として活動したのも、わずか10年のみです。その理由は?
画商として働くも失恋のショックで仕事に身が入らず解雇になったり、牧師を目指すも挫折したり……。ゴッホが高く評価され、作品が売れる様になったのは、彼の死後、数十年たった後です。
今回の記事は、そんな絵の売れないゴッホがなぜ画家として活動できたのか?、なぜ生前に作品が認められなかったのか?ゴッホの歩んだ苦難の画家人生を、生い立ちからまとめています。
またこの記事ではゴッホの「ひまわり」を柴崎春道さんの水彩画で描ける方法もご紹介しますね!
- ゴッホの生い立ち
- ゴッホは遅咲きの画家
- ゴッホは水彩画で練習していた&柴崎春通流「ひまわり」
- この記事を書いたトムが描いた「ひまわり」追記2022/07/02
- 柴崎春通さん2022年個展開催決定
ゴッホの生い立ち
ゴッホ展、動画でみると絵の中に入っていく没入感がすごい…!!!
— DIZ 🪐 (@DIZfilms) June 14, 2022
1853年3月30日、オランダ南部ズンデルドの敬虔なプロテスタント牧師「テオドルス・ファン・ゴッホ」と、その妻「コルネリア」の間に、一人の男の子が誕生しました。
フランスやイタリアのイメージがあるゴッホですが、実はオランダ出身のオランダ人です。
ゴッホの生まれ故郷であるズンデルトは、ベルギー国境近くで、平原広がる自然豊かな場所でした。現在も人口20,000人ほどの小さな村。秋には800万本ものダリアの花を使った花パレードが有名ですよ。
ゴッホが生まれ育った場所の周囲には、農場や畑、林などが点在し、村外れの一角には風車もありました。子供の頃から無愛想で気難しかったとされるゴッホは、一人で野原を散策して過ごしました。
そして、母に絵を描く事をすすめられた10歳以降は、読書や水彩画に、多くの時間を費やす様になっていきます。ゴッホは37年の人生の中で、ひまわりをはじめ多くの花を描きました。
ゴッホは6人兄弟の長男で、父は聖職者でした。父のテオドルスは、6人の子を養うため、本業の牧師に加え、副業として農業を行う事でなんとか生計を立てていました。
13歳で小学校卒業、成績が優秀だったゴッホは、ズンデルトから20kmほど離れた町ティルブルフに新設された難関の国立高等市民学校「ヴィレム2世校」に合格します。
1869年、国立高等市民学校ヴィレム2世校退学後、ゴッホは、伯父フィンセントの紹介で、絵画を扱うグーピル商会のハーグ支店に入社します。グーピル商会は、画商などに絵画を販売する商会で、オランダやフランスなどに複数の支店をもっていました。
ゴッホの弟テオとの兄弟愛
ゴッホが入社してから3年後には、15歳の弟テオもグーピル商会に就職します。この時、ゴッホは、同じ職業に就けた感動の気持ちを、テオに手紙で伝えています。
それ以来、テオとの手紙のやり取りは、ゴッホが死ぬ直前まで続きます。現在も実際の手紙が約700通も残されています。そして、これらの手紙は、ゴッホの作品や人生を知る上で貴重な手掛かりとなっています。
4つ年下の弟テオドルス(通称テオ)は、生涯にわたってゴッホを支えていきます。
ゴッホは生前、一枚しか絵が売れませんでした。弟テオが経済的に、そして精神的にもゴッホを支えたからこそ、ゴッホの名作が生まれたのです。
ゴッホ 厄介払いされロンドンへ
ゴッホが画家になる27歳までの間、画商や教師、牧師などさまざまな職を転々とします。
ゴッホは気性が激しく、不器用な性格でした。折に触れてトラブルを起こしてしまいます。仕事を始めても、長続きしません。
1873年5月、二十歳のゴッホは、ハーグ支店における4年間の優秀な仕事ぶりが評価されます。そしてロンドン支店に栄転となります。しかし実際には厄介払いであったと言う説もあります。
ゴッホはロンドンでプライベートな時間を、博物館や公園などで過ごします。また、大衆芸術にも興味を持ち、新聞のモノクロ版画や挿絵を約1000点も収集するオタクぶりでした。
また、ゴッホはロンドンに転勤した直後、下宿先の女性”ウジェニー・ロワイエ”に恋をしていました。ゴッホは、ロンドン赴任からわずか数ヶ月後に告白をします。しかし、既に彼女には婚約者がいたようで、冷たくあしらわれフラれてしまいます。
この失恋は、ゴッホの生活に大きな影響を与えました。ゴッホは失恋の大きなダメージを受け、以降は全く仕事に身が入らなくなります。
そんなゴッホを見兼ねた叔父は、環境を変えるために、パリ支店への転勤を命じますが、失恋を引きづり、聖職者になろうと考え始めていたゴッホは仕事への姿勢を改めませんでした。
そして遂にゴッホはグーピル商会を解雇されてしまいます。
職を失ったゴッホは、父親からの仕送りを受けながら生活をしていました。そして、農家や農民のスケッチを始めます。
ところが聖職者である父親は、働かないゴッホに業を煮やしました。ヘールにあった精神病院に入れようと考えるようになります。
しかし、当時グーピル商会で働いていた弟テオが、ゴッホに金銭援助を始めたのです。
ゴッホの最初の目標は聖職者になること
1876年にグーピル商会を解雇された23歳のゴッホは、なんとかイギリスのラムズゲイトにある寄宿学校で、語学教師の職に就くことができました。
職を変えたとはいえ、画商としての経験は“画家ゴッホ”の土台を築きました。
ゴッホにとっての教職は、聖職者になるためのステップとしてとらえていましたが、能力は非常に高く、仕事ぶりはそれなりに評価されていました。
しかし、度が過ぎた生徒への関係や学校側の利益に反する行動が問題となり、わずか一年足らずで教職を解雇されます。
そして解雇された後、ゴッホはグーピル商会時代に知り合ったアイルワースにいる牧師ジョーンズでした。ゴッホは、ジョーンズの図らいで、彼が経営する学校の補助教員と説教を行う伝道師の職を得ます。
1876年11月の日曜日に、初めて教会で説教を行ったゴッホは、これこそが自分自身の天職であると確信します。
それ以降のゴッホは、貧しい人々に衣服や食べ物を全て分け与え、睡眠も十分に取らずに、狂信的に伝道活動にのめり込んでいきます。このような生活を2ヶ月間ほど続けましたが、健康を害しさらに伝道師としての仮免許も停止されてしまいます。
ゴッホは失意の中、両親の暮らすオランダへの帰省を余儀なくされます。
24歳のゴッホがオランダに帰省した1877年、両親は、ズンデルド(ゴッホの出生地)から北方10kmほどに位置する町エッテンに居を移していました。
父は、ゴッホにドールトレフトという町で、書店の仕事を世話すると、ゴッホも最初は熱心に仕事に従事します。しかし、書店の仕事は牧師になるまでのつなぎと思っていたゴッホは、仕事中でも聖書に熱中し本業がおろそかして今います。
たった三ヶ月間という短期間で辞め、本格的に牧師を目指す事を決意します。両親もこのゴッホの考えに賛成し、アムステルダムの神学大学に合格できる様、親戚に協力を依頼します。
ゴッホは、ひたすら受験勉強に集中し合格に向けて着実に準備を進めていきます。
ですが、受験勉強開始から約一年、徐々に牧師になるための勉強に疑問を感じ始めます。「どうして貧しい人の心を救うのに、何ヵ国もの語学勉強が必要なのか?」ゴッホは受験勉強開始から1年ほどで、神学大学への進学をあきらめます。
しかし、1878年に臨時説教師として、ベルギー南部の炭鉱地ボリナージュへと赴きます。
ようやく、伝道活動ができたゴッホでしたが、またまた、度を超えた病人や怪我人への献身ぶりが問題となり、監視委員会から、臨時説教師の仮免許を剥奪されてしまいます。
その後、1年ほどこの地(ボリナージュ)に留まったゴッホは、ひたすら坑夫や酒場などをスケッチしながら、独学で絵画の腕を磨きました。
何枚もスケッチを描く中で、絵画こそ自身の天職だと感じ始めたゴッホは、27歳にして、プロの画家になる事を決意します。1880年夏の事でした。
そして、兄の画才に可能性を感じていた弟テオからの仕送りも、この頃より始まりました。
ゴッホは遅咲きの画家でした
ゴッホは27歳にして、ようやく画家を志すようになりました。4歳年下の弟テオからの支援を受けつつ独学でデッサンを学び、画家として描き始めます。
28歳のゴッホは実家のあるオランダ・エッテンに戻ります。この地でゴッホは、はじめて自分のアトリエを構えます。
ひたすらデッサンを描き、独学で腕を磨いていきます。敬愛する画家ミレーの模写(デッサン)もこの時期に数多く手がけています。
デッサンこそ全ての基礎だと考えていたゴッホは、習作を中心に手掛け、この時期に油彩画を描く事はありませんでした。
なぜなら、油彩画を描くには、超えるべき技術的な壁がある事を理解していたからです。
◆ひまわり名作誕生
フィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり(12本のひまわり)』1889年 フィラデルフィア美術館 pic.twitter.com/9FvrgNw4mw
— 美術ファン@世界の名画 (@bijutsufan) June 20, 2022
南仏アルルに着いたゴッホは、一気に才能を開花させました。オランダ時代に培った技法と、パリで学んだ印象派のスタイル、さらに浮世絵の研究。すべてを融合させたゴッホの前に、アルルの美しい風景が広がっていました。
いよいよゴッホ独自の新しい画風が花開き、名作が誕生する瞬間がきたのです。不器用な生き様でした。でもすべての出来事、すべての別れに意味があったのだと、感じざるを得ません。
《夜のカフェテラス》や《アルルの跳ね橋》、そして名作《ひまわり》などは、すべてアルル時代の作品です。
ゴッホは水彩画で練習していた
明後日の6月18日(土)に角川武蔵野ミュージアム(埼玉県所沢市)で開幕する「ファン・ゴッホ−僕には世界がこう見える−」展。内覧会に伺いました。全身がゴッホに包まれるような体験を味わえます。→(続 pic.twitter.com/5PoCK9NxnH
— 美術展ナビ (@art_ex_japan) June 16, 2022
ゴッホの代表作「ひまわり」は、油彩画を専門に描いているようなイメージがありますが、練習として水彩画を良く描いていたようです。
その有名な「ひまわり」は何点かありますが、そのうち一点は日本の美術館にあります。その額は何とおとそ53億円。
そんなゴッホですが、「落ち葉拾い」で有名な画家のミレーを先輩としてとても尊敬していたそうです。ミレーの作品を繰り返し模写して、その絵の描き方などのテクニックを学び型を身につけたからでしょう。
何かを創造して作り上げるってことは、まずは真似ることから始まるんだと。
面倒くさがらずに先生や先輩を真似る、謙虚な姿勢が上達するには大切なのかなと思います。
そこで、今回は私も水彩画を練習していますが、この「ひまわり」を柴崎春通さんの水彩画の動画を観れ練習しています。
水彩でひまわりを簡単に描くコツ 初心者講座
水彩画に興味がある方は、関連記事をご覧ください!私と娘が「柴崎春通さん」の動画を参考に描いた水彩画です。
ということで、私も柴崎さんの動画を見て「ひまわり」を描いてみました。
水彩画は最初から高価な画材は必要ありませんよ!小学生で使用する画材セットでも問題ありません!👇👇👇👇👇私の娘もこれを使っていますよ!
さいごに
天才画家ゴッホは、苦悩や狂気、孤独、壮絶、挫折……そんな言葉が並びます。たしかにゴッホはとても不器用でした。回り道をたくさんしました。でもすべての道のりは、ゴッホの繊細さと静かな情熱を伝えている気がするのです。
ご参考になれば幸いです。
最後までありがとうございました。
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