私もパパと一緒にスターバックスに行って、美味しい飲み物を飲みながら宿題するね!このスターバックスをこんなに世界に広めた人って誰?
こういった疑問に答えます。
「不可能だ」と言われたコーヒーチェーンの世界展開を成功させ、さらに一度は苦況に陥った会社の再生も成し遂げ、アメリカを代表する名経営者と言われている人物がいます。
それは・・・
「私たちはコーヒービジネスを展開しているのではないのです。コーヒーを提供する『ピープルビジネス』を展開しているのです」
ハワード・シュルツさんです。
不屈の精神でスターバックスのコーヒーを世界に広めたハワード・シュルツ
今回の記事は、スターバックスのコーヒーに出会ったことがきっかけで、スターバックスのCEOとなり、6店舗、100人以下の従業員規模から10年間で、1300店舗、2万5000人以上の企業に育て上げたハワード・シュルツのスターバックスとの出会いから世界に広めたコーヒー帝国までの軌跡を紹介します。
・新スターバックススタイル構築
・ハワード・シュルツの目指す場所
ハワード・シュルツ(Howard Schultz)、 1953年7月19日
ニューヨーク・ブルックリン生まれ、両親はユダヤ系ドイツ人移民のアメリカ人で、退役軍人の子として生まれた。
幼いころから苦しい暮らしの中で育ったが、アメリカンフットボールの特待生としてノーザン・
ミシガン大学に進学。卒業後、ゼロックスに入社。その後雑貨会社の副社長に転じる。
世界的なコーヒーショップチェーン・スターバックスコーポレーションを成長させた実業家。
ハワード・シュルツ スターバックス創業者出会い
ハワードはとある会社の副社長でした。ある日、ビジネスの関係で小さな会社から大量のコーヒーメーカーの注文が入りました。
「なぜこんな小さな会社からこんなにコーヒーメーカーを使うのか?」気になったハワードさんはその会社を訪問してみます。その会社の名前はスターバックス・コーヒー・ティー・スパイス。
するとそこで飲ませてもらったコーヒーに衝撃をうけるのです。
ハワードはそこでいろいろな話しを聞くうちに、すっかりスターバックスに惚れてしまいます。
その時、スターバックスには3人の共同経営者がいました。彼らはコーヒーを愛する人達だけでもいい、その人達だけにでも本当に美味しいコーヒーを伝えたいとの想いから、スターバックスを設立していたのでした。
彼らの店は予想以上に繁盛し、評判はどんどん上がっていきます。
ハワード・シュルツスターバックスへの転職決意
ハワードは現在の地位、高給などをあきらめてでも、彼らと一緒にスターバックスで働きたいと強く思い始めます。
そして創立者たちと会食の機会を得て、ハワードの思いを伝えます・・・
スターバックスには無限の可能性がある。スターバックスはもっと大きくなれる。もっと多くの人がスターバックスのコーヒーに夢中になる。何百という店舗を持つ大企業になることだって可能だ。
しかし翌日、創立者の一人ジェリーから電話があり、返事は「No」。
創立者たちはハワードをスターバックスに受け入れようとはしなかったのです。
私は、三人を魅了するどころか、たじろがせてしまった。彼らは会社を壊されるのではないかと心配しているのだ。私は適任者ではなかった。まるで、結婚式の途中で新郎に逃げられた新婦のような心境だった。あまりに衝撃が大きかったので、しばらく考えがまとまらなかった。
どうしても諦められないハワードは、さらに翌日ジェリーに連絡をし、自分の持っているマーケティングや販売の知識などがスターバックスに大きな影響を与えると熱く論じます。
ジェリーはハワードの主張に対して一晩考えると告げます。
その翌朝、ジェリーから電話がきました、一緒に働こうという前向きな返事でした。
彼らとの出会いがないままだったら、ハワードは一生スターバックスの一員となることはなかったでしょう。
1982年、ハワード29歳の時マーケティング責任者として入社します。
ハワード・シュルツ スターバックス買収
スターバックスや他のコーヒショップは当時は現在のようなスタイルではなく、当時のスターバックスは焙煎したコーヒー豆を売るだけの店でした。
1983年、イタリアを訪れたハワードは、街のあちこちにある小さなエスプレッソバーに気づきます。
カウンターの向こうから気さくな声が発せられ、バリスタは優雅にエスプレッソを注ぎ、カップを手渡してくれました。心地いい雰囲気がバーを包んでいました。ハワードはこのときに驚くのです。
「ここはただコーヒーを飲んでひと休みするだけの場所ではない。いること自体が素晴らしい体験になる『劇場』だ」
そのスタイルをハワードは、コーヒー豆を売る店から、コーヒーを飲んでもらう店に変えます。
しかし、コーヒーを飲んでもらうスタイルに変更する際に、ハワードと創業者たちとの考えが合わなかったのです。ジェリーはスターバックスをあくまでも小売業者として捉えていたのです。
そのためハワードはスターバックスを退職します。
スターバックスを辞める決意を固め、自分の理想のコーヒーを提供する店を作るために会社を起業します。その後のハワードは資金集めなどに何度も苦労しながらも、人気のコーヒー店へと成長させた。
翌年、スターバックスの創立者たちが店と焙煎工場、商標を売却する、という話が舞い込んきました。それを聞いたハワードはすぐさま買収を決め、投資家から380万ドルをかき集めてスターバックスを買収したのです。自分の店舗にスターバックスの看板を掲げるようにします。
それが今のスターバックスの始まりとなり、ここから、奇跡の物語は始まりました。
ハワード・シュルツの目指すスターバックスの場所とは?
「なぜ、スターバックスはこれほど支持されたのか。何より『自分の場だ』と顧客が感じられること。次に、クオリティの高いコーヒー。それを接客やインテリアなど、あらゆる面で演出して、顧客の期待を超えたからだと考えています」
ハワードがめざしたのは、単なるコーヒーショップではありませんでした。家庭、職場や学校でもない「第三の場所(third place)」。自分自身を再発見する場でした。
自分自身を再発見する場で最も重要なのは、心地いい雰囲気と高い品質のコーヒーをつくり出せる人材。ハワードが何よりも大事にしたのは、パートナーと呼ぶ従業員たちでした。
だからこそ「ピープルビジネス」だったわけです。
こんな良い物に出会えたのはチャンスだ!と感じたら迷わず行動に移す姿は、前に取り上げた、マクドナルドの創業者レイ・クロックと非常に似ていますね!
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ハワード・シュルツ「スターバックス」を愛されなければいけない
ハワードは企業としてのポリシーを徹底しました。人を大切にするだけではありません。利益の名のもとに倫理観や誠実さを失わないという姿勢もそうでした。だからこそ優秀な人材が集まり、顧客はそれを支持したのです。
スターバックスは順調に大きく成長していき株式を公開します。ハワードが一度、2000年にCEOを退任し、後任に委ねた後も、会社は順調に成長を続けたかに見えましたが、そうではありませんでした。
「会社は間違いを犯しました。コントロールできない成長をしてしまったのです。しかし成長している時には、間違いは見えないものなのです」
無理な出店はさまざまな問題を生みました。人材不足、品質低下、スターバックスのポリシーを曲げての商品開発。コーヒーの香りを台無しにするスナック類の販売でチーズの焼け焦げた匂いが店内に広がりました。ブランド力は低下・・・
2008年、ハワードはCEOに復帰します。誰もがスターバックスの復活は不可能だと考えていました。しかし、打ち出した変革に、全米が驚愕します。
全米7100の全店舗が一時的に一斉に閉鎖したのです。目的は、コーヒーを淹れる全バリスタの再教育。しかしさらに低迷します。数百万ドルの損失を出しますが、それでも、ハワードは改革を継続させます。
コーヒーの香りを妨げる商品は廃止。コーヒーマシン改良のための企業買収。新たな行動指針……。最後は約600の店舗閉鎖と約1800人の解雇。人を何よりも大事にした会社が、苦渋の決断をしたのです。
「ブランドは愛されなければなりません。そのためには、まず従業員が会社を愛していないと始まらない。それが大きな力を生み出します。最も大事なのは、現場の愛なのです」
会社はわずか2年で驚くほどの回復を見せ、数年で過去最高の売上高を記録します。誰もが不可能だと考えた奇跡を、彼はまた成し遂げたのでした。
まとめ
「企業には、世の中を変えていく使命があります。それは企業の役割ではないと考える人もいるかもしれませんが、企業の役割は変わりつつあると私は思っています」
「小さなことに気づくべきだ」異国の地であっても、苦しんでいる人、困っている人に手を差し伸べるのは当然だとハワードは語っていました。
正しいことをする企業に、人も利益もついてくる。スターバックスは、まさにそれを実践したのです。
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コメント
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