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成功した人は失敗や挫折を何度も経験したから今の幸せがあるのです

どん底からの逆転人生
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何度も挫折経験をしてきた人は多くいるだろう。
その挫折経験の中には心が折れてしまうようなこともあったはず!

 

TOM

私も数多く失敗してきて、何度も諦めてきたが・・・

挫折から這い上がる秘訣を知りたい!

こんな疑問にお答えします。

成功した人は失敗や挫折を何度も経験したから今の幸せがあるのです

 

ふと他の人の挫折経験を聞いたりすると『あれ?自分の失敗はそこまでじゃないかも』と不思議と前向きになったりするときがありますね!

失敗の大小なんてものは、その人の環境や価値観で大きく変化するものなので一概には言えません。

しかし、多少なりとも『自分はまだまだ失敗じゃない!』と思っていただける話もあるはずなので、心が折れそうになったときは思い返してみるといいでしょう。

 

そこで今回の記事は、後に挫折経験を何度もしながらも最終的には成功者として多くの人たちに知られた人たちをまとめてみました。

 

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GMO熊谷正寿丸の生い立ちは○○が無さすぎて奥さんを泣かせていた男

インターネットの黎明(れいめい)期から、ネットベンチャーが集まる東京・渋谷の「ビットバレー」で活躍し、勝ち残っている企業は数少ないです。
その1社がGMOインターネットグループです。
創業者でグループ代表を務める熊谷正寿氏は起業から20年あまりで、連結売上高1200億円超の一大グループをなぜ築けたのか?

 

1963年、長野県 東御市出身  58歳
國學院高等学校 ※中退放送大学
実質 中卒

 

熊谷正寿さんは高校を中退した後、しばらくはパチンコ店のオーナーとして勤務。

夜中に「長野の店が上手くいっていなくて困っている」と、隣の部屋で両親が話していたのをたまたま聞いたのがきっかけでした。父はパチンコ屋をチェーン展開、長野にある母の実家の近くにお店をつくっていた。郊外型の店舗で、千何百坪の土地があり、車を100台以上停められるような規模の店だった。

パチンコ店 立て直しを目指す

 

パチンコ店で学んだことが今のベースになっている。パチンコ屋というのは、それぞれの台が一つひとつの店みたいなもの。数百ものチェーン店舗を経営しているような同じものという発想です。

 

熊谷正寿さんは、20歳で結婚し、21歳で娘が誕生。

長時間勤務の安月給。風呂なしの傾きかけた住まいで生活。父親が経営している東京の会社で働くことになり、江戸川橋の寮に住むことになりました。

 

それがひどい寮。建物全体が傾いていた。使用できる電気の容量が少なく、電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛び、電気が使えなくなっても、ヒューズボックスが屋上にあって夜中は入れないので、朝までローソクで過ごした経験が多かったのです。

 

熊谷さんはある日、家に帰ってみると、「妻がお金がないので!明日から働く!」と泣いていました。
奥さんは毎朝、娘を保育園に預けて、ウエートレスのアルバイトをするようになります。すると朝、預けられるのがわかっているので娘も泣いていました。

 

熊谷さんは、今まで与えられた環境で仕事を真剣にやっていて、自分の人生について深く考えたことなかったが、家族が泣いている姿を見て初めて、「これってもしかしたら幸せじゃないな」と気づいたのです。

この続きは・・・

多少なりともIT業界に詳しい人であれば、”GMO” の名前を知らない人は まずいないでしょう。

これは、売上高1000億円・グループ総従業員数4000人を抱えるGMO社の 誕生秘話です。

中卒で “お金が無さすぎて奥さんを泣かせていた男” は、東証一部上場企業を作り上げてしまいました♪

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安田隆夫の人生はドンキホーテ、生い立ちは所持金五円のプーさん

安田隆夫さんは1949年生まれ、岐阜県大垣市出身。
1973年、慶應義塾大学法学部卒業、しかし大学時代に「言葉にできないモヤモヤした何か?」
これが「モノ」を売ることだと気づくのは長い迷宮を歩んだずっと後のことでした。
大学をサボって雀荘に通い、麻雀に明け暮れる自堕落な生活を続け、とうとう所持金が5円のプー太郎に。 

また、ボクサーに憧れてジムに入門。子供の頃に事故で左目の視力を失ったことが災いして、ボクサーは断念。

大学卒業後に就職した中堅不動産会社に入社もすぐに倒産。拾った新聞の求人欄から、日雇いの仕事を始める。港湾労働や新聞の拡張団で日銭を稼ぎながら、無頼の生活を送りました。

この続きは・・・

 

 

「驚安の殿堂」がキャッチフレーズの店舗を東京に開店。
その後、店舗は全国へと進出していきます。これは、年商6000億円を超える総合ディスカウントストア「ドン・キホーテ」の誕生秘話です。
所持金5円のプー太郎は、今では個人資産2500億円以上の大富豪になったとさ♪

 

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コンビニ廃棄弁当を漁るホームレス生活のOkWave創業者兼元謙任さん

兼元謙任(かねもと かねとう)1966年7月22日

愛知県名古屋市緑区出身の実業家である。在日韓国人3世として名古屋市に生まれる。

愛知県立瑞陵高等学校を経て、1989年に愛知県立芸術大学美術学部、デザイン学科卒業後、京都のデザイン会社と名古屋の建築塗装会社に務める。

6年生になると、難病であるギラン・バレー症候群にかかり、高校まで入退院を繰り返すことになり、車椅子生活を余儀なくされたこともあった。

1996年単身で上京。東京の知人を頼り上京するが仕事はもらえず再起のため、東京に新たな仕事を求めたがかなわず生活費も底を突き、ホームレス状態の生活が開始。

その後は・・・・

 

 

ウェブサービス「OKWave」の創業者である。

 

ココイチの創業者の生い立ちは壮絶すぎる、宗次徳二さんは孤児育ち

創業者である宗次徳二さんは、株の売却益で220億円もの資産を手にしたと言われていますが、 その圧倒的な成功を紐解いてみると、その裏にはちょっと想像を絶するような半生があったので紹介させていただきます。

氏名    宗次徳二(むねつぐ とくじ)
生年月日  1948年10月14日(70歳)
出身地   石川県職業    
壱番屋特別顧問(創業者で元会長)NPO法人  イエローエンジェル理事長宗次ホールオーナー 
引用:photo by : http://matome.naver.jp/
宗次さんの出生は想定外。宗次さんは石川県で誕生しましたが、戸籍上ではされていますが、両親は不明です。生後間もない乳飲み子の間に実の両親は彼を手放し、兵庫県尼崎の孤児院へ預けたといいます。 
その為、戦後生まれの日本がまだ混沌としていた時代とは言え宗次さんは実の両親の存在すら知らず育ちました。
その後3歳まで孤児院で育った彼を養子へと向かえ入れた夫婦が雑貨商を営む宗次福松と清子夫婦だった。この二人を始めての両親として宗次さんは幼少期を過ごします。
しかし、不運なことにこの養父が「最悪」でした。この養父や養母との暮らしもまた、産まれと同じく壮絶な幼少期を過ごす事に・・・
養父は働きもせず、数百円でもあれば競馬やパチンコに行くほどのギャンブル狂で、掃除をしていないだけで宗次さんを殴りつけるほどの暴力男でした。

家族は生活保護を受けて貧しく暮らすも、養父がギャンブルに使ってしまうために家賃が払えずに廃屋を転々とする地獄のような生活でした。

その後、祖父に愛想をつかした養母が失踪し、宗次さんは養父と2人で生活するようになります。

電気も水道も引けないので、廃屋でロウソクに火をつけて過ごしました。 道に生えている雑草を食べて餓えをしのぎ、学校には弁当を持っていけないので、お昼ご飯の時間は一人で校舎裏に隠れて時間をやり過ごしていました。

その後、宗次徳二さんは・・・・

どん底から這い上がり金持ちに成り上がったた人の行動パターンとは?

この章を読むことで、みなさんは、今どん底だろうが、どん底でなかろうが世間で言われる成功者とか金持ち、突き抜けた人たちに最短・最速になっていける、そんな考え方とか物の見方が身につきます。今回は4人の人物について、具体例を上げながらお話します。

■4名の有名人から学ぶ
  • 武井壮さん  行動パータン その1
  • 与沢翼さん  行動パターン その2
  • 堀江貴文さん 行動パターン その3
  • 丸尾孝俊さん 行動パターン その4

 

 

 

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