日本地図を最初に作った伊能忠敬(いのうただたか)は「宇宙の好きな天文マニアだったらしい?」・・・
こういった疑問に答えます。
伊能忠敬はすごいのは地図の測量を口実に天体測定をしていた天文学者だった!
映画「大河への道」の主人公 伊能忠敬
じつは伊能忠敬は、宇宙に憧れを抱く、無類の天文マニアでした。
もっとも関心を持った星が地球。日本で初めて地球について調べたのが、伊能忠敬でした。
「地球の大きさを求められる!」と思う。地球の計測という途方もない調査に挑んだのです。
調査には、日本の各地に行く必要があります。そこで旅の許可を幕府から得るために、「地図作り」を口実にしました。
しかし、地球を測ることは簡単ではありません。
当時の伊能忠敬の知恵と工夫とは?どんなことをして挑んだのか?
今回の記事は、日本ではじめて地図を作った伊能忠敬が、体を張って地球の計測に挑んだ 伊能忠敬の奮闘を紹介します。
・伊能忠敬は天文マニア
・伊能忠敬の天文台
・奇跡のような「伊能図」
伊能忠敬は”超”が着くほどの天文マニア
伊能忠敬は”超”がつくほどの天文マニアだったのです。
伊能忠敬が暮らしていた町、千葉県・佐原。米の売買を通じて大繁盛しました。忠敬は計算が強く、粘り強い仕事ぶりで、一代で家業を成功させ大金もちとなりました。
50歳になった時すでに、息子に家業を譲ゆずっていた忠敬は第二の人生に旅立ちます。忠敬は実は若い頃から和算に興味を持っていて、残りの人生を今でいう天文学・数学の研究に費やそうと考えました。
兼ねてからの夢だった天文学を極めるという夢を実現するために、寛政7年(1795年)に、江戸に遊学、日本一の数学者と言われた、徳川幕府天文方の高橋作左衛門至時の門弟となりました。
忠敬が尋ねた場所は、国立天文台(図書室)に絵として残されています。
伊能忠敬の天文台(深川)
浅草天文台 高台にいくつもの天体観測器具をそろえた 当時の最新の科学のすいを集めた徳川幕府の施設でした。この天文台に勤めていたのが、当時の日本の天文専門学者だった「高橋至時(よしとき)」、忠敬より19歳も若い先生に弟子いりをしました。
しかし、幕府の規定では、幕府の役人でないと観測器具を触ることができませんでした。
忠敬は「天文学の知識を教えてもらえるだけで幸せなので、よろしくお願いします」の言い残しその場を去りましたが、観測器具の習熟を諦めたわけではありませんでした。
忠敬は、なんといっても大金もちです。自費で天文の器具を注文して、自分のための天文台を作ってしまいました。
香取市 伊能忠敬記念館には、当時忠敬が使用していた観測器具が保存されています。
長さが2.2メートルもある望遠鏡を使って日食や月食、惑星の観測をやっていました。
星や太陽などの高度を測定するために、象限儀(しょうげんぎ)という観測装置も用意しました。
忠敬の独自で作った天文台は東京の深川にありましたが、どのような姿だったのかはわかっていません。
一番でっかいのは、圭表儀(けいひょうぎ) 太陽の高さを測るものだった。(太陽の影を測定する。)現代の専門家は、忠敬の圭表儀(けいひょうぎ)は横8m、高さ4mの大きさと予測しています。
星の高度を測る象限儀(しょうげんぎ)分度器の半径は180cmあったとのことです。
(分度器+望遠鏡の機器)
他にも巨大の観測機があると思われています。
忠敬は毎晩はこの自宅の天文台で、数十個の星を観測を行うことを自らに課していました。
こうして短期間でメキメキと天体観測の腕前をあげていったのです。
伊能忠敬の夢は地球の測量
江戸に出て、数年間で天体観測の技術を十分に習得した忠敬は、次の夢を描くようになります。
これまで日本の天文学者が調べたことのない星がある、その星を忠敬が調べようと考えました。
我々の足元に広がる星・・・地球の大きさを正確に図ってみたい!
いいアイディアがある・・同じ星を見上げても、ここ深川からと浅草からではほんの角度に差がある。それを使って地球の大きさを測ることができると思う。
地球の中心から深川の星を測定する位置と地球の中心から浅草からみる星の角度には0.025度の差があることに気づいたのです。(浅草と深川の距離は2.48Km)
あとはその距離を測って360度になるように計算すれば地球の円周がわかるはずだと考えました。
浅草と深川の距離は2.48Kmをベースに地球の円周を測ると、35,700kmになります。
実際の地球の円周は40,000kmですから、4300kmの誤差が生じてしまいます。
江戸(東京)の中では正確さにかける・・・江戸からもっと遠い場所、蝦夷地(北海道)まで行って観測しなければ本当の値は求めることができないないと、幕府天文台の先生の高橋至時(よしとき)がいいます。
御公儀から蝦夷地へ行く許可をどう取るか・・・
忠敬が高橋と一緒に相談して書いた申請書の文章です。
「私は、現在では、天体観測など間違えなくできるようになりました。
たくさんの機器も買いそろえ隠居のなぐさみとは言いながらも、このままでは相すいません。
せめては後世の役に立つ、地図を仕立てたいと思うのです・・・・」
地図を作るという大義名分をつくって幕府に申請を出したのです。
その申し出が功を奏し、見事 幕府から許しを得ることができたのです。天文マニアがこうじて地球の大きさを知るために北海道へと旅だったのです。
1800年6月55歳の忠敬は測量の旅に出発しました。
伊能忠敬 地球測量の旅
昼は距離の測定をし、晴れた日の夜は天文観測を行いました。最終的には全国の1000の地域で天体測定をしました。
出発してから30日目 船で北海道へ渡ります。
函館→室蘭→襟裳岬→十勝→釧路→厚岸→西別(最終地点)(風蓮湖)9月25日、江戸からはるばる歩いて1600Km、最終到達地点は根室海峡。
55歳 1600Kmを歩いて移動した根性と執念!
海に出た忠敬は海岸沿いに、3Kmほど進みました。江戸を立ってから107日間、毎日たゆまぬ測量観測と天体観測をしてきました。
現在、別海町と言われるこの地を「最東端到達記念柱 伊能忠敬 測量隊」としています。
伊能忠敬の地球の円周
忠敬が計算した値は、一度の里数(27里)=106Km。そこから計算した地球の円周は38,160km。地球の円周40,000km誤差5%。
もう一度、測量の許可を取り、旅立ちました。
2年間をかけ、東北をまわり、地球の円周を測るためのデーターを取りました。
忠敬が計算した値は、一度の里数(28里2分)=110.74Km。地球の円周40,000kmに対して 誤差0.3%。(400mの誤差)だったのです。
高橋の手に入れた本は欧州の最新の天文学に関する本で、ラランデ暦書。フランスでも丁度地球の大きさを測定したところでした。その値とラランデ暦書の値が一致します。
地球を正確に測定することに成功したのです。
伊能忠敬 前人未踏の快挙
忠敬の一連の作業は心身ともに極めて疲労を伴う過酷なものでした。また苦労は実務面だけではありませんでした。これらの準備資金や作業費用は自腹。幕府からの手当は無いに等しいかったのです。
交通の不便から、測量機器の運搬を幕府に申し出したが、受け入れてもらえず、そのくせ本州も実測せよと言ってくるありさまでした。
忠敬は、嫌気がさして測量をやめようとしましたが、師匠の高橋作左衛門至時から
「あなたのやっていることは、天下暦学の盛衰にかかわる大業である。もしやめるようなことになれば、これほど悔やまれることはない!」
という意味の内容の手紙をしたため、懸命に励まされました。
そうして、本州東海岸・東北・北陸などの日本の東半分の沿海図は、測量開始後、5年目で完成しました。
伊能忠敬の奇跡のような「伊能図」
忠敬の測量は、72歳まで続きました。この間、彼が歩いた距離は、4万3千キロ。地球を1周以上した距離になっていました。
西日本の地図を作成する頃には、彼の偉業は人々に認められるようになり、忠敬の測量隊は支援が増え、諸藩も協力する体制が整ったのでした。
文化15年(1818年)4月13日、もち病の喘息が悪化し、74歳の生涯を閉じました。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海興地全図」=「伊能図」が門人たちの手で幕府に納められますが、徳川幕府はこの地図を公開せず秘蔵にしていまいました。
文久元年(1861年)、イギリスの測量艦が日本沿海の実測を強行しようといた時に、幕府はやむなく幕府の人間をイギリス船に送り込むことで妥協しましたが、このとき案内用として幕府史に持たせたのが「伊能小図」でした。
イギリス測量艦に艦長ワード中佐は、
「われわれが測量しても、これ以上のものはできない。どうしてこんな素晴らしい地図が日本にあるのか!」
自分たちの測量結果と一部と寸分狂いのない地図に感激の声をあげました。
なにしろ「伊能小図」はヨーロッパで開発されたサンソン=フラムチード図法(地図投影法の一種=面積比が正しい)にのっとて描かれていたのです。
イギリス艦は測量を中止し、近海の測深をしたのみで、彼らは「伊能図」の写しを入手し、持ち帰ったと言い伝えられています。
このような話から幕府は、この地図を「皇国図」として慶応3年(1867年)のパリ万博博覧会に出品し、明治に入ってからは「伊能小図」をもとに、「大日本地図」を作成しました。
もし、日本に「伊能図」がなければ、日本の近代化は大きく遅滞したに違いないでしょう。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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