笑われるんじゃない!笑わすんだ!
ビートたけしの若いころのエピソードを知りたい!
そんな疑問にお答えます。
ビートたけしの若いころやイケメン時代のエピーソードを満載に紹介
芸人としてだけで無く、映画監督としても世界に名を轟かせているビートたけし。
ビートたけしの下積み時代前は漫才志望ではなかった!浅草キッド時代
ビートたけしプロフィール
1980年代初頭に起こった漫才ブームで、漫才コンビ・ツービートとして活躍した。社会風刺を題材としたシニカルな笑いで人気を獲得し、テレビ番組『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』などに出演し、それらも大ヒット。1980年代後半からは俳優として映画やテレビドラマにも出演し、1990年代からは映画監督としても活動している。1989年の『その男、凶暴につき』で映画監督デビュー。
ちなみに・・・私もビートたけしと同じ足立区出身です。
塗装職人の父・北野菊次郎(1899年- 1979年)と、母・北野さき(1904年- 1999年)の四男(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は三男として育つ)として生まれる。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武」と命名されました。
たけしさんは小学校時代、成績は優秀で、特に算数と図工が得意だった、小学校卒業後は、お母さんが進学校を希望され、近隣の中学校ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学。
中学校卒業後は当時、偏差値の高かった足立高等学校に進学。
教育ママのお母さんの言いつけどおり勉強に励み、見事、明治大学工学部に入られた、たけしさんですが、あっという間に学校が嫌になり、大学を中退。お母さんには勘当されてしまいますが、ここからたけしさんの芸人への道がスタートします。
1972年の夏、高校時代によく遊んでいた浅草に行くと、浅草のストリップ劇場「浅草フランス座」で「エレベーター番募集」の張り紙を見て応募。「浅草フランス座」のエレベーターボーイとして働きはじめた。
ビートたけしの下積み時代前は漫才志望ではなかった!浅草キッド時代
ビートたけしの師匠はフランス座の深見千三郎「最後の弟子」
深見さんに師事し、タップダンスの修行の中、前座芸人「北千太」としてコントを学び、幕間コントに出演し、腕を磨いていきます。すると、座員の多くが深見さんを近づきがたい存在として見ている中、物怖じしなかったたけしさんは、深見さんから気に入られ、一般の場所であっても、唐突にギャグ(ボケ)を連発し、それをたけしさんが間髪入れずに、即興で深見さんを罵倒するという芸を仕込まれたそうで、この特異な芸の仕込み方に、たけしさんは、四六時中、深見さんに振り回されることとなるのですが、そのお陰で芸を習得。
舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に斬新さがあったことから、やがて、たけしさんは、他の座員から一目置かれる存在となったのです。
ビートたけしが見た!浅草ターザンなどの浅草の伝説の名物男たち【浅草キッド時代】
ビートたけしこ5年間にわたる浅草での修行時代・・・・
ビートたけしが見た!浅草ターザンなどの浅草の伝説の名物男たち【浅草キッド時代】
ビートたけしの相方が飛び降りた!下積み時代の相棒カーキーの自殺未遂
下積み時代の「浅草フランス座」では、たけしさんより少し遅れて、カーキーこと和樹さんが入門、たけしさんは、芸に対してひたむきだったたカーキーさんを見て直感で、二人でコンビ「リズムフレンド」を結成。二人は、毎日、朝まで笑いについて語り合い、劇場の屋上でコントの練習に明け暮れるなど、一緒に売れようと誓い合うほど、仲が良かった。しかし
やがて、カーキーさんがアドリブが出来ないなど、自身との実力に大きな差を感じるようになっていきます。たけしさんとの実力の差を痛いほど分かっていたカーキーさんは、やがて、心の病となり入院。コンビは自然消滅してしまったのでした。
そして、その後、いつ頃かは不明ですが、カーキーさんは、建物の2階から飛び降りたそうで、一命は取り留めたものの、お見舞いに来たけしさんに、芸人になる夢を諦めたことを告げたのだそうです。
ビートたけしの相方が飛び降りた!下積み時代の相棒カーキーの自殺未遂
たけしさんが、1986年にリリースした楽曲「浅草キッド」
その歌詞の中で「夢はすてたと言わないで」という歌詞は、カーキーさんのことを歌っているそうです)
お前と会った 仲見世の 煮込みしかない くじら屋で 夢を語ったチューハイの
泡にはじけた 約束は 明かりの消えた 浅草の コタツ1つのアパートで
同じ背広をはじめて買って 同じ形のチョータイつくり
同じ靴まで 買う金はなく いつも笑いのネタにしていた
いつかうれると信じていた
ビートたけしの浅草キッドの原作は?感想は?
ビートたけし生い立ちを知ることができ、あなたに元気を与えます!舞台は戦後から高度成長期に沸く東京。たけし少年の初めての記憶から、オリンピックを経て、学生運動の気運高まる時代の中、新宿を彷徨っていた大学時代まで。突き刺さるノスタルジーと青春のモラトリアム…。人間の本質に迫る私小説!
下積み生活から脱出!ツービート結成から漫才ブーム
コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎(のちのビートきよし)から漫才コンビを組むよう誘いを受けた。
コントにこだわったたけしさんは漫才に慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定だった相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、松鶴家千代若・千代菊門下の漫才コンビ「松鶴家二郎・次郎」の次郎として舞台に上がることを了承した。
深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許されます。
その後2人はコンビ名を「ツービート」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。
1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げました。
竹の塚(足立区)エリカは下積み時代のビートたけしが通っていた 喫茶店
ビートたけしの事故の真相は?実は幸せではなかったから自殺
フライデー襲撃事件
1986年12月、北野が交際していた女性へ、講談社の週刊誌「FRIDAY」の記者が強引な取材によって傷害を与えた。
その報復として北野はたけし軍団の一部の軍団員とともにFRIDAYの編集部を襲撃し、住居侵入罪・器物損壊罪・暴行罪の容疑で警察に現行犯逮捕されました。
この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され、当時の内閣官房長官が言及するなどの社会現象になったのです。
志村けんとビートたけしの仲は深い絆で結ばれていた日本のお笑い帝王
最後に北野たけし名言で締めたいと思います。
ビートたけし名言
人生で楽しいことばかりじゃない。苦しいと思うことも生きている証だと思えば楽しめる。
必死にやってもうまくいくとは限らなくてどうにもならないこともある。それが普通で当たり前だってことの方を教えるのが教育だろう。
努力ってのは宝くじみたいなものだよ。買っても当たるかどうかはわからないけど、買わなきゃ当たらない。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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