美人画の有名が女流「上村松園」って誰?
こんな疑問にお答えします。
上村松園は美人画を描いた女性画家ひたむきな努力家
美人画を一筋に描いた 上村松園
今回の記事は、明治・大正・昭和の3代を、美人画一筋に描き、すぐれた色彩をもって格調高い、それこそ無類の、独特の美人画様式を創り出した上村松園についてお伝えしていきます。
この記事でわかること
1.上村松園の生い立ち
2.上村松園のひたむきな努力
3.上村松園 画家として独立
上村松園の生い立ち
上村松園は画号であり、本名は津禰といいます。明治8年(1875年)4月23日、京都四條御幸町(現・京都市中央区)の葉茶屋ちきり屋の次女として生まれました。
父・上村太兵衞は養子であり、松園が生まれる2ヶ月前にこの世を去っています。したがって父・太兵衞が亡くなったとき、妻の仲仔は26歳。松園の上には、姉こま がいました。
「ちきり屋のつうさん」と呼ばれていた松園は、明治14年に仏光寺開智小学校に入学しました。
ものごころついて以来、絵を描いてきた松園は、町内の絵草紙屋で江戸絵や押絵をねだって母に買ってもらい、夜店にならんだ役者の似顔絵や武者絵などを、熱心に見てまわったといいます。
父親はおらず、母親が懸命に働いている中で、松園の性格もあったと思いますが、閉じこもって店先で絵ばかりを描いていました。
図画の教師にも画才を認められ、京都市小学校連合展に出品した煙草盆の絵は、表彰されすずりの商品をもらいました。
明治16年、松園16歳。第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、これがイギリス貴族が買い上げ、そのことが新聞に報じられ、いちやく松園の名が知られるようになりました。
明治20年、松園は京都府画学校(現・京都市立芸術大学)に入学しました。家が親族や親戚によって、がんじがらめにされている時代です。松園の進学は、当然のことのように周囲から猛烈な反対をうけました。ですが、母・仲子がこれらを説得してくれたのです。
母・仲子は松園に対して、このように言っています。
「お前は、家のことはせんでもよい。一生懸命に絵を描きなされや」「私が懸命に絵を描いているのをみて、こころ秘かに楽しんでいたのがママである」
上村松園の母・仲子
「もしも松園に、仲子という母がいなければ、おそらくこの日本近代画を代表する女流画家は、歴史に名をとどめるどころか、世に出ることはなかったにちがいありません」・・・・・
母・仲子は男まさりでもあったんでしょう・・・自らの女性としての幸せよりも、娘二人の未来を選択しました。女手ひとつで、店をきりもりしながら娘二人を育てる決意をしました。
普通なら母・仲子は再婚するべきで、なぜならば「葉茶屋ちきり屋」は京都の呉服屋「ちきり屋」で、長年采配を振るっていた上村貞八が、葉茶屋で働いていた太兵衞の人物をみこんで、姪で養女の仲子と一緒にさせ、店を開かせたものであったのです。
ところが仲子は、娘二人の家庭に、血のかかわらぬ父親があらためて入ってくることが、娘たちのためにならないと判断しました。
テレビもネットもない時代、仲子は昼間の労働のあと、貸本屋から読み本を借りてきて、小説などを読んでいたようです。松園は「南総里見八犬伝」「水滸伝」「椿説弓張月」などの挿絵を楽しくにしていたといいます。
明治時代の半ばである、女性の幸せは結婚して家庭に入ることとされた時代、お茶やお花の稽古ならまだしも、絵を書くことが好きだという娘・松園の希望をきいて、絵の勉強を専門になせる親は、ほとんどいません。
芸術がいかなるものか、多くの日本人にはまだ理解されておらず、絵画・彫刻などは一部の上流階級の独占物のように思われていた時代です。
女流の不遇な時代背景
江戸時代・・・明治時代・・・絵画の世界では女流は常に不遇の時代でした。
一つには、創作活動の体力的な問題。
昼夜の関係なく作品を描きあげるということが、男性に比べ女性は劣るとみなされていました。また、描く線がやさしい分、力強さに欠け、床の間に飾ってみると、男性のものと比べて見劣りします。
二つめには、世相。
男尊女卑の思い込みも女性の進出を阻んでいて、発表する機会すらわずかにしかないのが実情でした。
こうした中で、娘・松園が絵の勉強をしたい、といってそれをゆるせた母親というのはどれほどいたのでしょうか。しかし、この母・仲子はごく普通の商家、庶民的な教養しかもっていません。
上村松園 ひたむきな努力
松園は、いわゆる創作が次々と飛躍する「天才」のタイプではありませんでした。
自らが好む画材をゆっくり楽しんで考え、納得行くまで推敲し、一生懸命、習い覚えた技法を駆使して、繰り返し繰り返し描く。
そして創作にいきづまると、自らにないものを外へ求めて懸命に学ぼうとしました。
四条円山派の大家・幸野楳嶺(このばいれい)の塾に移り、また当時、画家にとっては「常識」のごとくいわれた漢学も市村水香・長尾雨山について学んでいました。
芝居小屋や博物館にも足を運び、熱心に連日、写生したといいます。能の世界に学んでこともありました。
松園は懸命に画家として修行をい積んだが、これを支えたのは間違えなく母・仲子でした。
「私を産んだ母は、私の芸術までも産んでくれたのである。それで私は、母のそばにさえ居れば、ほかの何が無くても幸福であった。
上村松園、画家として独立
母・仲子は「ちきり屋」を廃業し、松園と仲子は御池車屋地屋町(現・京都市中京区東屋町)に移り画家として独立しました。
松園の創作活動はますます活発になっていきます。日露戦争後、日本の国力が上がり、私企業の数も増え、日本人全体の生活レベルもよくなり、その様式も欧米諸国にならって少しずつ洋式化化しはじめました。
特に明治40年、文展が開催されてからは、この日本画壇の主流をなす官展を中心に、松園の作家活動は充実しました。しばしば賞を受け、自らが審査員も務めました。
文展以外でも新古美術展、日本美術協会、巽画会などに作品を出品され、海外展にも積極的に進出しました。明治43年の日英博覧会に出品した「花見」は金賞となり、翌年のイタリア万国博覧会に出品しや「人形つかい」「上苑賞秋」も好評をえました。
大正13年(1924年)には女性として、初めて帝展審査員となりました。
松園はただ絵筆をとり続けました・・・
昭和9年(1934年)2月22日 母・仲子が86歳で他界しました。ふと気づけば松園は60歳となっていました。母の死が彼女に大きな転機を与えました。
その芸術は大きく飛躍します。「母子」「序の舞」「草紙洗小町」「夕暮」「晩秋」などの傑作、のちに松園の代表作と評される作品が、つぎつぎに生まれました。
格調高き独自の美人画を創出した松園は、その美人画の領域から抜け出して、さらには近代日本絵画の世界に、無類の「松園芸術」を確立しました。
太平洋戦争をはさんで昭和23年11月には、女性として初めての文化勲章(第6回)が授与されました。
昭和24年8月27日 松園は75歳でその生涯を閉じました。
「私は一生、姉様遊びをしたようなもんどす」
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