昭和初期に、「我が国の市政界の至宝」と絶賛された大阪の市長の”関一”ってどういう人?
大阪の歴代市長のなかで、”関一”は市長職にあった一代で”空前絶後”ともいえる事業を断行したと聞いています。どうような事業をしたの?
こういった疑問に答えます。
大阪の歴代市長は大大阪開発計画を実行した関一「それええで」
近代大阪を築いた男 関一
今日の大阪を、ほぼ独力で創り上げたといっても過言ではありません。
今回の記事は、近代大阪を市長職一代で創り上げた、「関一」について紹介します。
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・大阪の歴代市長 関一 大阪を築いた男
・関一の「大大阪開発計画」の実行
大阪の歴代市長 関一 大阪を築いた男
第7代大阪市長・関一。恰幅(かっぷく)のよい体格に、メガネの奥から光る眼差しが鋭い。いかにも意志が強そうである。
関の生涯は、そのたぐいまれな先見性から、周囲の人々から誤解され、疎まれ、それでもなお、世間の習慣・慣習を相手に、戦わなければならなかった点に特徴がありました。
明治6年(1873年)、伊豆に旧徳川幕府の幕臣の長男として生まれました。その後、3歳で江戸に戻り、東京高等商業学校(現・一橋大学)で学びました。学業の途中で父が病没し、苦学を強いられましたが優秀な成績で卒業しています。
明治初期、欧米列強に追いつくべく、がむしゃらに努力していた当時の日本で、関は最も不足していた新時代の経済人材の育成を目指して、情熱を燃やしていました。
関は、卒業後、文部省に入省しましたが、官僚世界になじめず、わずか1年で退職し、後進の教育に目を向けて、兵庫県立神戸商業学校の教員、新潟県下の商業学校長兼教諭などを務め、明治13年、母校の教授に迎えられて東京に戻りました。
関は、明治31年から3年間、ベルギー・ドイツへの留学を果たし、この留学期間に開催されていたフランス・パリの万博博覧会に立ち寄り、そこで開業わずか3週間の「電気地下鉄道」、すなわち地下鉄に乗車する機会に恵まれました。
交通政策を中心とした都市設計を先進国で学んだ関は、その後、アメリカに渡り世界第一の富豪の生活と貧困生活の両方を目のあたりにしています。
帰国後、日本は清国・ロシアとの戦争に勝ち、ようやく世界の一等国の仲間入りを果たしますが、その内実はあまりにも貧弱でありました。
関は、花形の教師として、都市政策の論文、著書をつぎつぎに発表し、法学博士となりました。都市政策を評論するだけではなく、政策を自らの手で実施に推進してみたいと思いはじめました。
関一 大阪へ
そんな関のもとへ、ときの大阪市長・池上四郎から次期市長含みの「高級助役」としての招聘されました。関は42歳、未知なる大阪へ向かいました。
助役に就任した関は、大正3年(1914年)9月3日、大阪市議会に姿を現し、その着任の挨拶で、
「・・・英国における政治の中心はロンドンであるが、経済の中心はマンチェスターで、かの国のことわざにも今日マンチェスターにおいていえるところは、明日のロンドンにおいてこれに従うと言われる。思うに将来では、”今日、大阪の主唱せるところ、明日、東京の従う時ある”を信ずる」
と言い放ちました。
大阪を経済面において日本一にし、首都東京を従えさせるというのです。
大阪人にして、本気で大阪が東京を凌駕(りょうが)すると考えた者は、この時代、皆無に等かったのです。
しかし、大風呂敷を広げ言い放った関ですが、最初の4年間は何ひとつアクションを起こせませんでした。
「やはり食わせ者か!」人々が失望の色をより深く鮮明に顔に浮かべたころ、大正7年8月3日、富山県で米価騰貴(とうき)を契機とする「越中女一揆」に端を発した民衆の暴動が勃発しました。「米騒動」が全国的に広がったのです。大阪では、集団禁令発布され、戒厳令下にも似た様相になりました。
すると関は、突如としてアクションを開始しました。その行動も中途半端ではなく、自ら4年間調査し構想を練った「大大阪開発計画」のための行動でした。
関一の「大大阪開発計画」の実行
関の発案による、日本最初の市設市場が、安価な米を売り、ついで日雇い労働者のためには職業紹介所、単身労働者や失業者には共同宿泊所、ほかにも託児所、自動相談所、失業保護施設、さらには浴場に住宅などが創設されました。
関は、大阪市内の米騒動を、発生6日目で鎮静化しました。大阪の人々は関の恐るべき力量を、初めて思い知ります。
関の口癖の言葉・・・・
「上を見て煙突を教えるのではなく、下を見て労働者の状態を見よ」
大正10年、関は市民の猛反対を受けながら、2億数千万円という、当時としては巨額を投資し、第一次都市計画事業に着手しました。
2年後、市長となった関は、大正14年に第二次計画を断行。大阪市は隣接町村を編入し、一挙に全国第一の土地(延181.68平行キロメートル)と人口(211万人)を擁する、世界的にも第8位にランクインされました。
しかし、関の計画は、多くの人々に反対されますが、関は屈しませんでした。下記の「大大阪開発計画」実行していきました。
・中央市場の開設
・御堂筋の着工
・市バスの開始
・大阪港の拡張
・大阪商科大学(現・大阪市大)の創設
・大阪城天守閣の再建
・地下鉄(梅田—心斎橋間)の開通
・南港の埋め立て
今日の大阪の名所の一つとされる、御堂筋の銀杏並木の幹線道路を敷設したときも、船場の旦那衆は口を揃えて、「市長は船場に飛行場をつくる気か?!」と頑強に土地の買収を拒みました。
大阪の道路は大正時代まで狭隘(きょうあい)の状態のまま放置されていました。とにかく狭い!道路の幅は東西で8.1メートル、南北で6.3メートルといった粗末な道路でした。
その道路を自転車、荷車、人力車、馬車、牛車が絶え間なく往来していました。
市営地下鉄の開通
地下鉄工事では「ビルが傾く」「振動で電球が切れた」「子供が寝つけんやないか」と騒音、振動の苦情に加え、感情的な反対意見が、ありとあらゆる形で市役所に殺到しました。
地下鉄工事も遅れに遅れ進まず、新聞各紙の批判も厳しくなりました。
昭和8年(1933年)5月20日、日本最初の市営高速鉄道「地下鉄」は、梅田—-心斎橋間に開通しました。
「大大阪開発計画」の実行により年々蓄積する市債、果たして返済できるのか?・・・・
関は、「大丈夫、心配することはありません。大阪の実力は大したもの、大阪市は潰れませんよ」
関には信念があったのです。大阪を一つの企業体であると考えていました。
関市長重体・・・・心労からついに倒れてしまいました。多くの人々の祈りも虚しく、1月26日、関はその生涯を閉じました。
大阪の市民が8万人という空前絶後の列をなして、関市長を見送りました。大阪を輝かせた男・関一。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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