「江戸時代に大きのお金を稼いだ豪商って誰ですか?」って調べたこといありませんか?
こういった疑問に答えます。
「箱館発展の恩人」と称される淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛
結論からお話しします。
☑️淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。
☑️国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。
作家の司馬遼太郎氏が江戸時代の人と実際に会えるなら、まっさきに会いたいと言った人物です。
当時は、雇われ船長として関西と北海道との間で、魚類を中心に貿易をしていました。
その時に知り合った、栖原角兵衛と言う商人から、こんなことを言われます。
あなたは、必ず大成する人男だ。
ぜひ私と組もうではないか」と言ってくれ、ポンと一千五百両も提供してくれたのである。
-豪商列伝-
現代価値に換算すると、仮に一両を4万円の場合、6千万円を提供してもらったことになります。
この資金を元手にさらに大きくなっていきます。今でいうと、クラウドファンディングのような話しですね。
金額の正確さは、定かではありませんが、人から好意を持たれるエピソードが多々ある人なので、人を惹きつけるカリスマ的なオーラがあったんだと思います。
今回の記事では、そんな極貧生活から大成功した江戸時代商人の高田屋嘉兵衛をご紹介します。
高田屋嘉兵衛とはどんな人物?
「箱館発展の恩人」と称される淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛の名は、函館市民の誰もが知る人物です。
1769(明和6)年1月1日(旧暦)、高田屋嘉兵衛は淡路島 都志本村(つしほんむら)(現・洲本市五色町都志)に6人兄弟の長男として生まれました。
幼い頃から海に親しみ船を愛した嘉兵衛には、少年時代、近くの川に玩具の船を浮かべながら、潮の満干を調べて大人達を驚かせたといった逸話がいまも語り継がれています。
22歳で兵庫(現・神戸市兵庫区)に出た嘉兵衛は、大坂 (大阪)と江戸の間を航海する樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となり、船乗りとしてのスタートを切りました。
やがて優秀な船乗りとなった嘉兵衛は兄弟たちと「高田屋」を立ち上げます。
日本海の湊(みなと) を結びながら大坂と蝦夷地北海道)を行き交う廻船問屋として商売を行い、
28歳で当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造し、まだ寂しい漁村にすぎなかった箱館(函館)を商売の拠点を作ったのです。
高田屋嘉兵衛についての物語は、司馬遼太郎作『菜の花の沖』が楽しく読めますよ。
江戸後期の廻船問屋、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた長編小説を読みました。
まるでわらしべ長者のような人生です。
貧乏のどん底から、水夫になり中古の船を手に入れ、ついには自分の船を持ちます。
この内容は「海賊と呼ばれた男」の出光佐三の伝記と似ていますね。
彼の成長にかかわる同業の面々、船大工、港ごとに出会う取引先の商人たち、役人たち。
さまざまな人間関係、さまざまな困難を乗り越えて進むまるで冒険小説です。
それが5巻目なると、いっきに雰囲気が変わり、当時の日本とロシアの歴史的な概要が語られます。
なんだか新書を読んでいるみたい。
わたしは歴史が苦手でちっとも勉強しませんでしたので、
この先起きる出来事の予測も全くできません。
「高田嘉兵衛はどこへ行った、高田嘉兵衛の話を聞かせて」
ともがきながら、わからない地名や人名をネット検索しながらの読書になりました。
ただ、この巻はとばさず粘ってよかったです。6巻で展開するゴローニン事件の顛末は、
この時代の世界で何が起きていたのか、という知識なしには、とうてい理解できないものでした。
高田屋嘉兵衛の海外との貿易
江戸時代の頃の世界は、大航海時代を経て、 新たな交流の時代を迎えていたのです。
ロシア人を日本へ向かわせた理由のひとつが、ラッコなどの毛皮です。
このラッコなどの毛皮などは商売上から「柔らかい金」とも呼ばれていて、この毛皮を求めて、18世紀初頃にはロシアの毛皮商人たちの千島列島の南下がはじまりました。
ロシア人の活動が盛んになるにつれて、物資補給地、 交易地としての日本との関係構築が課題となりました。
一方、ロシア人がエトロフ島やウルップ島辺りに渡来し、アイヌと交易するような状態を危惧した幕府は、国防対策を急ぎます。
高田嘉兵衛は幕府の要請を受けて、エトロフ島とクナシリ島間の安全な航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても功績を残したのです。
高田嘉兵衛の日本とロシアと争いの仲介役となる
1804 年 9 月(文化1年)、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、徳川幕府に通商を求めましたが、 幕府はその要求を拒否します。(当時、第11代将軍徳川家斉)
レザノフは武力行使で日本側に通商を認めさせようと、本国の許可も得ず、部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させました(文化露寇:フヴォストフ事件)。
この攻撃で日本側は驚愕し、東北諸藩の兵を動員して厳戒態勢を取ります。
1811年6月 (文化 8年 )、海軍省の命令を受けて千島海域の地理を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴロヴニン艦長が、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、日本側警備隊に拿捕されるという事件が起きます。
そして、偶然近くを通りかかった高田嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカに連行抑留します。
囚われの高田嘉兵衛とロシアの副艦リコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉をします。
高田嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという政府高官名義の証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉を聞き入れたリコルドは高田嘉兵衛と共に日本に戻り、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴロヴニン釈放にいたる和解を成し遂げたのです。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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