4月から小学校5年生になったんだけど・・・国語の教科書に「やなせたかし–アンパンマンの勇気」があるのを発見したよ!
この「やなせたかし–アンパンマンの勇気」は”伝記”としてとても重要だよ!しっかり学んでね!
だけど・・・どのように学べはいいの?
こういった疑問に答えます。
小学5年生の国語の教科書にある「やなせたかし–アンパンマンの勇気」はいわゆる「伝記」です。
どのようなことが書かれている文章なのか,どのように学ぶのかを理解したり,文章中に描かれる出来事や人物像から人の生き方を捉え,自 分の生き方について考えたりすることをねらいです。
やなせたかし【アンパンマン】は勇気を世界中に与えた!勇気の花がひらくとき
多くの方、一度はアンパンマンをご覧になったことがあると思います。またテレビなどでやなせたかし先生の姿を見たことがある方も多いかもしれませんね。
いつも笑顔だったやなせたかしさん。いつも人を笑顔にしていたやなせたかしさん。
しかし、やなせたかしさんの人生は笑顔ばかりだったわけではありません。家族との別れ、戦争、弟の死、劣等感など、たくさんのつらいできごとがあったのです。
だけれども、それらがあったからこそ、多くの作品がやなせたかしさんから生みだされ、大勢の人を笑顔を与え、勇気をもつことができたのです。
今回の記事は、2013年10月13日、やなせたかしさんはすでに他界されてから9年。アンパンマンが大好きな子どもたちや小さなころにアンパンマンが大好きだった方にぜひ知っていただきたい、やなせたかしの人生の物語です。
- やなせたかしさんの生い立ち
- やなせたかし アンパンマン誕生秘話
やなせたかし アンパンの勇気
やなせたかしさんプロフィールと生い立ち
やなせたかし生年月日: 1919年2月6日、没年月日: 2013年10 月13日。
出身地: 東京都北区。活動期間: 1947年~2013年
やなせたかしさんの出身地は東京都北区となっていますが、幼少期に家庭の事情で、日本各地を転々としていました。父親との死別や母親の再婚など、複雑な家庭環境だった幼少期のやなせたかしさんんでした。
やなせたかしさんは1919年、東京都北区で誕生しました。父親は、やなせたかしさんが生まれた翌年に朝日新聞社に転職し、1923年に特派員として上海に単身渡っています。
その後、母親とやなせたかしさんも上海に行き、家族は一緒に暮らし始めたものの、父親がアモイ(福建省)に転勤になったことをきっかけに、父親を残して母親と東京に戻りました。
1942年父親はアモイで死去したため、亡き父の縁故をたどって母親と弟と共に高知県高知市に移住しました。しばらくすると母親が再婚すると、やなせたかしさん兄弟は、移住先の高知県で開業医をしていた父方のおじさんの家に引き取られることになります。
おじさんは趣味人だったそうで、やなせたかしさんの人生に大きな影響を及ぼしたことを後年明かしています。
青年になったやなせたかしさんは、幼い頃から興味があった絵を極めたいと考え、東京高等芸学校図案科(現在の千葉大学総合工学科デザインコース)に進学します。
やなせたかしの戦争体験
大学を卒業したのち、一般企業に就職しました。しかし、世の中は第二次世界大戦の真っただ中。絵を極めるどころか、生きることもさえも困難な時代となっていき、激動の数年間をおくりました。
戦時中、東京田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)に入社したやなせたかしさんは、宣伝部に配属されました。しかし1941年、徴兵で大日本帝国陸軍の補充隊へ入営しています。
やなせたかしさんは高学歴だったため、幹部候補生を志願したところ、見事「乙幹」と呼ばれる試験に合格し、暗号を解読する部隊の下士官に抜擢されました。
やなせたかし 絵を極める旅
第二次世界大戦後、世の中が徐々に落ち着きを取り戻し始めるころ、やなせたかしさんは趣味として楽しんでいた絵を描きたい、表現したいという気持ちになりました。
戦後最初に就職したのは、高知新聞です。「月刊高知」の編集部に配属され、編集者の肩書を持ちながら、誌面の表紙や漫画を自身の手で手掛けていきます。
そして再び上京、三越の宣伝部に就職しグラフィックデザイナーとして活動します。三越の包装紙のデザインを担当したのです。
デザイナーとして勤務を続けながら漫画を書き続けていく中で、会社の社内報を手がけ、さらに新聞や雑誌に応募して、少しずつやなせたかしさんの漫画が知られていくようになりました。
やなせたかしさんは、漫画を描くのは副業のような感覚で継続し、少しずつ漫画で収入を得るようになりました。
1953年3月には、漫画の収入が会社の給与の3倍になったため、三越を退社し、漫画一本で生きていくと決断します。
しかし、独立して10年も経たずして、あっさりと挫折しています。
1960年代頃から、手塚治虫さんを代表とする「ストーリー系マンガ」が徐々にマンガ市場のシェアが上昇してきたのです。
やなせたかしさんの描く漫画は「大人漫画」「ナンセンス系漫画」と呼ばれるジャンルで、一時期は人気を誇りましたが、その後人気が低迷し、漫画家としての収入が減少していきました。
やなせたかし サンリオとの出会い
やなせたかしさんの危機を救ったのは、ハローキティなどのファンシーグッズで知られる「サンリオ社」でした。
1960年代半ば、当時やなせたかしさんが所属していた「漫画集団」の展覧会に、山梨シルクセンター(サンリオの前身)の社長を務めていた辻信太郎さんが訪れました。
小物雑貨を販売しながら、ヒット商品を出すために試行錯誤中だった辻信太郎さんは、展示場でやなせたかしさんの作品を見て、商品パッケージのデザインや漫画を依頼したのです。
1966年、やなせたかしさんは詩集の出版を計画していましたが、出版社を見つけることに苦戦していました。この話を聞いた辻信太郎さんは、当時のサンリオ社は出版経験ゼロでノウハウもありませんでしたが、「それならうちで出そう」と嬉しい提案をしてくれたのです。
そして、やなせたかしさんの初詩集「愛する歌」を出版したところ、サンリオ社の業績を大きく伸ばす売上を記録する大ヒットとなりました。
この成功をきっかけに、サンリオ社の出版部門から絵本を出版することに繋がりました。
絵本作家としては遅咲き!すでに47歳
漫画家の馬場のぼるさんと共に「漫画家の絵本の会」を立ち上げます。絵本業界で急激な成長を遂げたやなせたかしさんは、自身の代表作品となる「アンパンマン」を誕生させます。
やなせたかし アンパンマン誕生秘話
日本は中国との戦争を開始、デザイナーとして製薬会社で仕事ができたのは1年間だけでした。徴兵され中国大陸の戦場に行くことになったのです。
1日に40キロメートルもの距離を歩いて移動したり、マラリアにかかって高熱を出したりと、戦場ではさまざまな苦しい目にあいましたが、もっとも辛かったのが「食べ物がなかった」ことでした。
戦争が激しくなるにつれて食料が不足し、食事は朝と晩と2回だけ、それも米がほんの少ししか入っていない、うすいおかゆでした。
やなせさんは、「最も辛かったのは飢えだ」と語っています。食べる物がなくタンポポなど野草を食べていました、また上官が飲んだお茶の茶がらも食べていました。
1945年に終戦を迎えると、4年ぶりに日本に帰ってきたやなせさんは、弟が戦死したことを知ります。助け合って行きてきた弟を失った悲しみの中で、やなせさんは
「なぜ千尋は死に、ぼくは生き残ったのだろう・・・・」
「いったい君は、何をしたかったのだろう。君の代わりにやるとすれば 何をすればいいのだろう・・・」
「正義とは何なのか」と自問自答がはじまりました。
「本当の正義とは、おなかがすいている人に、食べ物を分けてあげることだ」
「戦争は、人を殺すことだが、食べ物を分けることは、人を生かすことであり、応援することだ」
・・・・そう気づいたのです。
戦時中、戦後は人々にとって重要だったのは、「食べ物」です。
そして、本当に困っている人に必要な手助けをする人こそが「正義の味方」であり、この信念を持つキャラクターで絵本作りをしようと決意したのです。
やなせたかし-アンパンマンの勇気
やなせさんは、54歳のとき、一冊の絵本を出版しました。タイトルは「あんぱんまん」。のちに日本中の人気者にのなる「アンパンマン」の誕生です。
アンパンマンは、今までのヒーローとは違っていました。顔がぬれただけで力をなくしてしまうし、カッコイイ武器も持っていません。
でも困っている人がいると、真っ先に駆けつけます。そして自分の顔を食べさせることでその人を元気付けます。
それは、前章でお話したつらい戦争体験をもとに、正義や命について自問自答した結論から生み出された主人公でした。
しかし当初は大人たちから「顔を食べさせるなんて残酷だ!」などの評判が良くありませんでした。
アンパンマンの勇気!
やなせさんは、
「正義を行い、人を助けようとしたら、自分も傷つくことを覚悟しなければいけない」、「自分の食べ物をあげてしまったら、自分が植えるかもしれない。いじめられている人をかばったら、自分がいじめられるかもしれない。それでも、どうしても助けたいと思うとき、本当の勇気がわいてくるんだ!」
と信念を貫きます。
やなせさんは、人気が出なくてもアンパンマンを描き続けました。すると幼稚園や保育所の先生から「うちの子供たちはアンパンマンが大好きです」「みんな絵本がボロボロになるまで読んでいます」などと励ましの言葉が届きます。
そしてアンパンマンは、アニメもになり幅広い世代で愛されるキャラクターになったのです。
また、2011年3月11日に発生した、東日本大震災や各地で起こった災害では、「アンパンマンマーチ」の合唱が起きたり、繰り返し流されました。
本「ボクと正義とアンパンマン」
なんのために生まれて、なにをして生きるのか?・・・その答えを改めて考えさせてくれるような、あたたかい文章のエッセイ。読者である子どもを決して侮らず、「幼きもの」へのリスペクトを忘れない姿勢が素敵で、見習いたい。
「子どもたちには、「愛、勇気」をもってほしい。いまの時代ではこうしたことをまともにいうと恥ずかしいという風潮があります。しかし、「愛、勇気、冒険」といったことはとても大事なことです。その中でたすけあおうという気持ちが出てくるからです。」(『ボクと、正義と、アンパンマン』P27)
わたしが正義について語るなら/やなせたかしさん
傷つくことなしには正義は行えない」 この言葉が印象的でした。 アンパンマンの原点に触れることが出来る本。 私なりの正義を考える良い機会となりました。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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