大リーグ(MLB)の日本人選手 大谷翔平の活躍はすごいよね!
「日本にまだプロ野球がない大正時代に大リーグを破った投手が存在していたんだって!」「この話し聞きたい! 教えて!」
こんな疑問にお答えします。
大リーグを日本人の投手が初めて破ったのは大正時代、 SHOT-TIME!
初めて大リーグを破った男・小野三千麿
日本にまだプロ野球がない大正時代。大リーグの全米チームと全日本チームの実力差は隔絶していました。ところがそんな時代に、全米チームに勝った投手がいました。
三田倶楽部のエース・小野三千麿(みちまろ)。伸びのある速球と、「懸河の如き」ドロップで、メジャーリーガーを翻弄しました。
今回の記事は、現在から遡ること数百年「大リーグ・メジャー選手に遜色なし」と言われた怪腕投手・小野三千麿の話しをまとめました。
剛の小野三千麿
都市対抗野球に、人の名前を冠した賞が二つあります。一つが敢闘賞の「久慈賞」、戦前の名捕手・久慈次郎を懸賞したものです。
もう一つが「小野賞」で、大会で素晴らしい活躍をした選手、監督、チームに贈られる特別賞のことです。
「小野賞」は都市対抗野球の「育ての親」とも言える小野三千麿の功績を称えて昭和31年(1956年)作られました。
小野三千麿とはどういう選手だったのか?
じつは小野三千麿は、日本で初めて、大リーグ選抜チーム相手に白星を挙げた投手でした。
小野は大正時代に慶應義塾大学のエースとして活躍しました。その後、セミプロの「大毎球団」に所属していました。
昭和2年(1927年)に都市対抗野球が始まると、発展に尽力し引退後は大阪毎日新聞の記者として鋭い論壇をおこないました。
では小野のプロフィールを紹介します。
明治30年(1897年)神奈川県に生まれました。鎌倉師範学校に入学して本格的に野球を始めましたが、当初は肩が弱かったのです。
しかし、毎日バッティング練習に投げることで、肩や腕の力に頼らず全身の力を使って投げるフォームを習得、制球力もつき、球も速くなりました。また身長も177センチと均整の取れた体格となり、たちまちエースになりました。
卒業後は横浜のクラブチームで投げていましたが、慶應大学OBの平沼亮三から誘いがかかり、大正7年(1918年)に慶應大学に21歳で入学しました。
小野三千麿のドロップカーブ
小野は慶應大学野球部の先輩の森茂からある球種を伝授されます。これが小野の転機になるのです。
アウトドロップ(外角に逃げるカーブ)の投げ方を教わったのです。
特に小野の球は、「懸河の」と称されるほどの落差のある変化をし、外角低目いっぱいに決まるので、相手バッターは手が出ませんでした。
新人の小野は、新田恭一(後巨人コーチ)とともにエースとなり、「剛の小野、技の新田」と呼ばれ、二大エースが看板チームとなりました。
小野三千麿 本場のベースボールと対決
大正8年の秋季リーグ、11月15日の法政大学戦に登板すると、14個の三振を奪い、ヒットも1本も許さない好投でノーヒットノーランを達成。中二日おいた18日も明治大学相手に2試合連続ノーヒットノーランを達成し、日本史上初の快挙となりました。
そして、小野は初めて野球の本場のアメリカ人と対決することなりました。
大正9年(1920年)5月、強豪シカゴ大学が遠征してきたのです。シカゴ大学は過去2回来日しており、日本の大学に負けたことはありませんでした。
しかし、この年の第2戦で小野が先発登板します。延長10回を投げて3対3の引き分けに持ち込みました。
激しい雨の中の試合、小野の好投は人々の目を魅了したようであり、その投げっぷりに観衆は大きな感動を覚えました。
だが、11月にアメリカのコーストリーグ(マイナーリーグ)主体に構成されたプロチームが来日。小野は11失点と滅多打ちにあっています。
小野はこの時、実感しました。「到底及ばざる力量の差と観念した」。
アメリカのチームの一人、ハーバート・ハンターは、日本人選手の向上心の強さに感動、後年の大リーグ選抜チームの来日を構想しました。
小野はその後、大学を去り、会社のクラブチーム「大毎球団」また、慶応大学OBで作った三田倶楽部のエースとして各地で投げ、学生時代よりも一段と投手として成長していきました。
大リーグチームとの対決
大正11年(1922年)、ハンターは再び来日しました。今度は正真正銘の大リーグの選抜チームでした。メンバーには・・・
240勝をあげた ハーブ・ぺノック(レッドソックス)、ピストルショット快速球のジョー・ブッシュ(ヤンキース)、ジョージ・ケリー(ジャンアンツ)などの一流の選手たちでした。
第1戦は11月4日 芝浦球場で慶應大学相手に行われました。試合前の大リーガーたちのフリーバッティングでは、打球のほとんどが場外へ・・・観衆の度肝を抜きました。
当時の早稲田大学の飛田監督は「彼らは真剣にやったら、50点は取るだろう。大相撲の横綱が大学相撲と勝負するようなものだ」と呟きました。
大リーグ選抜チームは当然のごとく4連勝を重ねましたが、第5戦で思わぬ結果となりました。
11月19日、芝浦球場で行われた三田倶楽部との試合。先発はエースの小野。しかし大リーグチームは本気を出してこないのです。先に日本チームに点を与え、4回までに8−1と日本リード。
しかし、小野は最初から本気モード前回、4回裏も3者凡退に仕留めます。5回に大リーグが2点を追加しましたが、小野は崩れません。三振こそ少なかったですが、打たせて取るピッチングで大量点を与えません。
大リーグの選手の顔色が変わっていきました。「この投手、侮れない!」
焦りから彼らは一発を狙って大振りを繰り返し、より一層、キレ細かいコントロールの小野の術中にハマっていきました。小野の速球は打者の膝元からホイップし、伸びのある球が決まれば流石の大リーガーも当てるのが精一杯でした。
8回を終え、9対3と日本リード・・・最後の9回の裏・・・小野によって全て内野ゴロを打たされゲームセット!三田倶楽部は、大差で大リーグ選抜を破り、小野は完投勝利をあげました。
勝利の瞬間、観衆は目の前の光景を信じることができず、水を打ったような静けさだったといいます。しばらくして、どこからともなく「三田倶楽部バンザイ!」の声が起こり、あちらこちらでバンザイが繰り返されました。
負け投手となったホイートは大阪毎日新聞で「小野は、ボディースイングの立派なことはもちろん、速球といい、曲球といいコントロールといい、我々が接した日本人投手の中では一番優れたいるように思えました」と讃え、「小野投手は立派なできで、このレベルであれば大リーグでも活躍できる」と述べました。
また、ジョージ・ケリーも「小野投手は一球一球考えて打者の欠点をついてきます」と述べました。
小野三千麿は社会人野球の「育ての親」
小野の功績はもうひとつありました。昭和24年(1949年)、プロ野球は2リーグに分裂すると社会人野球から多くの選手を引き抜きました。
有力選手の流出で、当然、都市対抗野球のレベル低下が懸念されました。そこで小野は代表チームの層の薄さをカバーできる、同じ地区の他のチームの選手も参加できる「補強制度」を取り入れ、都市対抗野球のレベルを維持しました。
小野が社会人野球の「育ての親」と言われた由縁です。
小野の著書である「野球」の序章には
「私は野球に全生涯を打ち込んできました。その間に、私は『野球で人間が作れる』という固い信念を得ました。この信念は私の尊い体験の賜物です」
まとめ
大正時代に大リーガーに指摘された点を日本野球は克服し、現在ではアメリカが逆に学ぶほどの「スモールベースボール」と呼ばれる細かい技術を身につけ、また昨今では二刀流の大谷翔平やパワー・スピードを兼ね備えた鈴木誠也などの活躍がMLBを圧倒しています。
野茂からはじまり イチローや松井秀喜など大勢の日本人大リーガーを生んだ日本の原点というべき人物です。
大正時代に、メジャーリーガーに一歩も引かず投げ抜いた豪腕投手がいたことはに思いを馳せながら、今日の日本の球界の繁栄をみています。
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