日本で知っている人は少数かもしれませんが、アメリカで知らない人がいないくらい有名なテレビ司会者、オプラウィンフリー。
アメリカ有名なオプラ・ウィンフリーってどんな人物なの?
そんな疑問を解決します。
貧しいアフリカ系アメリカ人の両親の間に生まれたのですが、逆境に立ち向かい、トークショーの司会者として成功を収めました。
アメリカ大統領レベルの権力者?!セレブ司会者オプラ・ウィンフリー
その成功のおかげで今や総資産は約2900億円だと言われています。
ご意見番として知られています。
また社会への影響力も強く、オバマ大統領の一回目の大統領選挙では、オプラの支持で約100万票以上も動かし、オバマ大統領の当選のキーパーソン。
また、慈善家としても知られており、オプラを崇拝する人がアメリカにたくさんいます。
オプラ教といわれるほど!!
まさに富と名声を得た女性です。オプラさんはどのようにして今の位置にまで登りつめたのでしょうか?
オプラ・ウィンフリー生い立ち
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オプラ・ゲイル・ウィンフリー(英語:Oprah Gail Winfrey)
実際オプラは決して恵まれた環境に育った訳ではありませんでした。
オペラ・ウィンフリーは1954年1月29日にミシシッピー州で未婚の10代の親の元に生まれます。
母親と父親はつき合ってもおらず樫の木の下で一夜を過ごしただけの関係でそれからつき合う事もなかったそうです。
母親はオプラが生まれてすぐに6年間旅に立ち、それまで貧しかった祖母のもとで育てられました。
そんな金銭的に過酷な環境にオプラはいたのですが、祖母は小さい頃から熱心に教育しました。
三歳になる頃には読むのを教わり、それから難しいキリスト教の聖書を愛読し復唱するようになりました。目立ちたがり屋のオプラは教会に行っては聖書を復唱して教えを説こうとしていたそうです。
このおかげでオプラは読むのも書くのも得意で普通の幼稚園児と比べたらその賢さは群を抜いていました。オプラは幼稚園児の時に飛び級しすぐに小学校に入学、小学一年も飛び級しすぐに小学二年生に進学します。
オプラ・ウィンフリーが受けた性的虐待と貧困による絶望時代
しかし、その後母親に引き取られ、母の元で暮らす事になりました。
母は家事手伝いとして遅くまで働いている上に、祖母の様に教育熱心ではありませんでした。
9歳の頃から親戚の男性や母親の友人から強姦、虐待を受け苦しい生活を送ります。
また、後に亡くなってしまいますが、この間にオプラの母は妹と弟をもうけます(妹は43歳の時にコカインの多量摂取により亡くなり、弟も1989年にエイズ関連の病気で亡くなりました。)子供が増えたため、生活はよりいっそう苦しくなりました。
苦しい生活から抜け出したかったオプラは13歳の時に家出をし、14歳ときには妊娠し男の子を出産しました。
しかしオプラの赤ちゃんは乳児の時に亡くなってしまいます。この頃からオプラは母親に反抗したりする態度に拍車がかかり、母のお金を盗んだりするようになります。
耐えきれなくなったオプラの母は父親の元に連れていき、父親が住むテネシー州に移住します。
これがオプラにとっての転機となります。
オプラ・ウィンフリーの人生の転機とは?
そして、オプラは容姿端麗だったためテネシー州でミスブラックに選ばれます。
この頃オプラはまだ高校生でした。
16歳になるとラジオ局WVOLでニュースを読み上げる仕事をアルバイトで雇ってもらえる事になり、オプラは仕事を始める事にします。
のちに成績優秀だったオプラは奨学金を受け取り、 テネシー州立大学に1971年に入学、ラジオ局での経験も活かし、19歳でローカルニュース番組のアナウンサーとして仕事を始めます 。
放送局でオプラは一番若く、初の黒人キャスターだったそうです。
頭の回転の早さと親しみやすい性格で人気となり、さらに経験を身につけキャリアを積み上げていきます。
ここで成功をするも、厳しい父親のおかげで謙虚な態度でいつづけました。夜10時から10時半までのニュースキャスターの仕事だったのですが、父に定められた門限が11時だったそうです。
オプラ・ウィンフリー成功への道
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ニュースキャスターとしての経験を積みますが、自分の意見が言えず、原稿を読み上げるニュースキャスターの仕事が自分に向いてないという事をオプラは悟ります。
トピックや原稿がないまま生中継の時間を繋げなくてはいけないという中でオプラはアドリブ力を発揮します。
また、そのあと運良く トークショーのホストとしての仕事を依頼されるのです。
そこで、原稿だけじゃなく自分の意見もいえるトークショーの司会者が自分の力を一番発揮できることに気づきます。ここからオプラはキャスターとしてのキャリアではなく、テレビ番組の司会者としてのキャリアを目指します。
1976年オプラは、メリーランド州のバルティモアに移住し、キャスターの仕事はもうやめ、“people are Talking “というテレビ番組の司会者としても仕事をはじめます。
その後、自身のブロードキャスティング会社も設立し、1986年には2011年まで続いたオプラの代表番組でナンバーワン高視聴率番組, The Oprah Winfrey Show がはじめました。
自分の過去の苦悩、性的虐待の経験や黒人差別をうけた経験などを包み隠さずに話し、 相談者に寄り添って親身に相談をきく番組スタイルとオプラの人間性そのものが評価されました。
過去のトラウマを告白してつらい思い出を克服し、前向きに生きていけるようにサポートする形のテレビ番組を作る事で悩みを抱えている人の支えとなるような番組になります 。
これが特に主婦の間で絶大な支持を得るのです。
またオプラの番組でのプレゼントは型破りで、オプラの誕生日の時には番組を観覧しにきたお客さん全員に車をプレゼントする豪快っぷり。2009年にはアメリカだけで週に4900万人の視聴者を得、その他に他国147カ国で放送されました。
月刊のマガジンも創刊され月の購買者がなんと230万人。北米で一番成功しているマガジンです。
オプラの影響力は強くなりすぎていると懸念する人も少なくありません。実際、オプラが言った事は社会的影響力が強く、以前に発言した「もうバーガーは食べない」という発言のせいで牛肉の需要が減り価格も下落。
結果家畜者がオプラを訴えるまでの事態がおきました。経済的にも大きな影響力があるオプラ。 オプラは市場を動かし、人々の意見に絶大な影響力がある、生き神の様な存在になったのです。
まとめ
これまで、オプラの経歴について話してきましたが、何が一番のオプラの成功の秘訣だったのでしょうか?
オプラはインタビューでこう答えています
「一番の要因は私が自分の本能に従って常に動いていたからです。人間一人一人この世の中にやるべき事、運命があって生まれてきていると私は信じています。
なので自分の心の声に耳を傾ける事ができれば、自分の正しい道を選択できることができます。
一番大事なのはその自分の中の感情や心の気持ちにちゃんと耳を傾けて聞く事です。
そうすれば間違った判断をする事はないでしょう。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
トムハンクスは現在も映画で引っ張りだこ、しかし若い頃は地獄の日々を過ごしていた
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