笑われるんじゃない!笑わすんだ!
ビートたけしは、下積み時代はどうだったの? どうして芸能人になったの?
そんな疑問にお答えます。
ビートたけしの下積み時代前は漫才志望ではなかった!浅草キッド時代
日本を代表するお笑い芸人であり、タレントであり世界で活躍する映画監督でもあるビートたけしこと「北野武」。
北野武の生い立ちから下積み時代前
ビートたけしプロフィール
1980年代初頭に起こった漫才ブームで、漫才コンビ・ツービートとして活躍した。社会風刺を題材としたシニカルな笑いで人気を獲得し、テレビ番組『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』などに出演し、それらも大ヒット。1980年代後半からは俳優として映画やテレビドラマにも出演し、1990年代からは映画監督としても活動している。1989年の『その男、凶暴につき』で映画監督デビュー。
ちなみこの記事を書い「TOM@考動力の極意」ですが、北野武さんと共通点が多々あります。
TOM@考動力の極意
塗装職人の父・北野菊次郎(1899年- 1979年)と、母・北野さき(1904年- 1999年)の四男(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は三男として育つ)として生まれる。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武」と命名された。
「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、「生まれたのは浅草(台東区)で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している。
北野武の父 菊次郎さん
なかなか仕事を回してもらえなかったそうで、家族ぐるみの付き合いをしていた隣に住む工務店から、建築の刷毛仕事を請け負っていたものの、大して稼ぐことができず、そのうえ、元来の放蕩癖もあり、家にお金を入れることができなかったそうです。
その分、お母さんのさきさんが内職で稼ぎ、せっせと貯金をされていたそうで、太平洋戦争が始まる頃には、家を建てることができる貯金は貯まっていたそうです。
ここで注目すべきは、たけしさんの父親の名前「菊次郎」さん。そうなんですね。
あの有名な映画「菊次郎の夏」
たけしは、主人公に父親の名前をつけた理由を明かす。「なぜあなたは主人公にあなたの父親の名前をつけようと思ったのですか?」
久々に墓参りに行った時に 確か”菊次郎”という親がいたな、忘れていませんよ」という意味で映画の題名にした。
「菊次郎の夏」:あなたを感動の渦に引き込む傑作!様々な人と事件に出会いながら現実の厳しさと人々の優しさにふれていく二人の『少年』の数日間の旅。
時に突拍子もない行動に走る菊次郎の後をひたすらついて行くだけだった正男は、やがて横を、ついにはしっかり手をつないで歩き始める。。。。
教育かあちゃんの影響で小中高と成績優秀だった
そんな生活の中、たけしさんは、(血はつながらないものの)おばあさんである北野うしさんには、とても可愛がられるも、お母さんのさきさんからは、とても厳しく育てられます。
さきさんは、幼い頃、まともな教育を受けておらず、貧乏の悪循環を断ち切るためには教育しかない、と思い込んでいたそうで、いつも寝る前には、子どもたちの鉛筆を削り、教科書やノートの点検、さらには、子ども達が学校に行くと、必ず、窓の外からちゃんと授業を受けているか確認されたというのです。
たけしさんは小学校時代、成績は優秀で、特に算数と図工が得意だった、小学校卒業後は、お母さんが進学校を希望され、近隣の中学校ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学。
中学校卒業後は当時、偏差値の高かった足立高等学校に進学。
下積み時代、芸人を志したのは浅草フランス座のエレベーター番から!
教育ママのお母さんの言いつけどおり勉強に励み、見事、明治大学工学部に入られた、たけしさんですが、あっという間に学校が嫌になり、大学を中退。お母さんには勘当されてしまいますが、ここからたけしさんの芸人への道がスタートします。
1972年の夏、高校時代によく遊んでいた浅草に行くと、浅草のストリップ劇場「浅草フランス座」で「エレベーター番募集」の張り紙を見て応募。「浅草フランス座」のエレベーターボーイとして働きはじめた。後に、たけしさんは、
ジャズ喫茶でバイトしているとき、新しい芸術の波が起きていて、仲間が新劇とか映画監督の若松孝二のとこに行ったりして…。それ見て、俺も何かやんなきゃいけないかなって思った。
そのときは映画なんか興味がなかったから、高校時代に遊んでた浅草に行ったんだ。そしたら、演芸場の浅草フランス座を持ってる会社に“エレベーター番募集”って書いてあって、バイトで入っちゃった。
と、芸人を目指すようになった経緯について明かされています。「浅草フランス座」でエレベーターボーイとして働き始めた、ビートたけしさんですが、そこの経営者であり座長でもあった、芸人・深見千三郎さんに気に入られ、いよいよ芸人としての下積みがスタートします。
手元にある昭和35年10月の「実話読物」の白黒グラビア4ページで浅草フランス座の舞台稽古風景を追った特集「真夜中にうごめく美女たち」。浅草フランス座が今の浅草演芸ホールのある1階から今は東洋館のある4階に移って約1年後。萩本欽一は階下の東洋劇場に居た。#フランス座 #萩本欽一 #浅草 pic.twitter.com/3JDEdKgjG2
— 西条昇の浅草エンタメ散歩 (@saijoasakusa) April 6, 2022
下積み時代に覚えたタップダンス
1972年25歳、「浅草フランス座」でエレベーターボーイとして働き始めますが、ある日のこと、経営者で座長でもあった芸人・深見千三郎さんから、タップダンスを教えてもらいますが、渋々タップダンスの練習をされていたのですが、
ある日のこと、急にオカマ役が風邪で舞台を休んだことから、深見さんに呼ばれてメイクを施され、オカマ役で舞台に出演、ハイヒールで女優さんの足を踏んづけたところ、これがお客さんに大ウケ。
下積み時代、前座芸人デビュー
深見さんに師事し、タップダンスの修行の中、前座芸人「北千太」としてコントを学び、幕間コントに出演し、腕を磨いていきます。すると、座員の多くが深見さんを近づきがたい存在として見ている中、物怖じしなかったたけしさんは、深見さんから気に入られ、一般の場所であっても、唐突にギャグ(ボケ)を連発し、それをたけしさんが間髪入れずに、即興で深見さんを罵倒するという芸を仕込まれたそうで、この特異な芸の仕込み方に、たけしさんは、四六時中、深見さんに振り回されることとなるのですが、そのお陰で芸を習得。
舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に斬新さがあったことから、やがて、たけしさんは、他の座員から一目置かれる存在となったのです。
ビートたけしさんが師匠 #深見千三郎 さんについて話してる動画です「そのスピリッツを完全に汲んでしまった」「同じ血が流れてる人の下に着いたオレの運の良さ」深すぎて何回も観てしまう。”大切な人が、大切にしてることを、大切にしていく”そんな素敵なたけしイズムが詰まった動画です。#浅草キッド pic.twitter.com/GeUpLVp4TQ
— リンダマン@脱社畜でフリーランス (@elifehack) April 2, 2022
下積み時代、浅草キッドの悲しい物語
浅草キッド
久しぶりに余韻に浸れる映画に出会えた気がします。
ネトフリ限定なのが残念。
誰もいない映画館でこっそり涙したい。 pic.twitter.com/NtRM3OKRO8— Vincent©︎ (@vin_yokikana) April 5, 2022
下積み時代の「浅草フランス座」では、たけしさんより少し遅れて、カーキーこと和樹さんが入門、たけしさんは、芸に対してひたむきだったたカーキーさんを見て直感で、二人でコンビ「リズムフレンド」を結成。二人は、毎日、朝まで笑いについて語り合い、劇場の屋上でコントの練習に明け暮れるなど、一緒に売れようと誓い合うほど、仲が良かった。しかし
やがて、カーキーさんがアドリブが出来ないなど、自身との実力に大きな差を感じるようになっていきます。たけしさんとの実力の差を痛いほど分かっていたカーキーさんは、やがて、心の病となり入院。コンビは自然消滅してしまったのでした。
そして、その後、いつ頃かは不明ですが、カーキーさんは、建物の2階から飛び降りたそうで、一命は取り留めたものの、お見舞いに来たけしさんに、芸人になる夢を諦めたことを告げたのだそうです。
たけしさんが、1986年にリリースした楽曲「浅草キッド」
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その歌詞の中で「夢はすてたと言わないで」という歌詞は、カーキーさんのことを歌っているそうです)
お前と会った 仲見世の 煮込みしかない くじら屋で 夢を語ったチューハイの
泡にはじけた 約束は 明かりの消えた 浅草の コタツ1つのアパートで
同じ背広をはじめて買って 同じ形のチョータイつくり
同じ靴まで 買う金はなく いつも笑いのネタにしていた
いつかうれると信じていた
下積み生活から脱出!ツービート結成から漫才ブーム
コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎(のちのビートきよし)から漫才コンビを組むよう誘いを受けた。
コントにこだわったたけしさんは漫才に慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定だった相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、松鶴家千代若・千代菊門下の漫才コンビ「松鶴家二郎・次郎」の次郎として舞台に上がることを了承した。
深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許されます。
その後2人はコンビ名を「ツービート」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。
1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げました。
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。
1982年の夏にはブームは完全に終息し、たけしは「ツービートのたけし」としてではなく「タレント・ビートたけし」として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。
ビートたけし & たけし軍団 / 哀しい気分でジョーク (1985.2)pic.twitter.com/rbpqUyEf5L
— 80’s音楽bot II (@80smusicbot2) April 4, 2022
ビートたけし生い立ちを知ることができ、あなたに元気を与えます!舞台は戦後から高度成長期に沸く東京。たけし少年の初めての記憶から、オリンピックを経て、学生運動の気運高まる時代の中、新宿を彷徨っていた大学時代まで。突き刺さるノスタルジーと青春のモラトリアム…。人間の本質に迫る私小説!
フライデー襲撃事件
1986年12月、北野が交際していた女性へ、講談社の週刊誌「FRIDAY」の記者が強引な取材によって傷害を与えた。その報復として北野はたけし軍団の一部の軍団員とともにFRIDAYの編集部を襲撃し、住居侵入罪・器物損壊罪・暴行罪の容疑で警察に現行犯逮捕された。この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され、当時の内閣官房長官が言及するなどの社会現象になった。
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映画監督としての経歴
1990年代からは映画監督としても活動している。1989年の『その男、凶暴につき』で映画監督デビューし、『ソナチネ』(1993年)では世界的に高い評価を得た。1997年の『HANA-BI』ではベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。
1)青を基調とした映像「キタノブルー」
2)歩くシーンが多い
3)セリフが少ない
4)四コマ漫画の連続性。
5)瞬発的殺戮・秒殺・加減のない暴力描写のリアリズム。観客が想像する前に事が行われる恐怖。
6)北野の口癖である「馬鹿野郎」もしくは「この野郎」というセリフが、映画内で多用されている
7)緊張の中に突如織り込まれるギャグ。
さいごに 北野たけし「名言」
というわけで、今回は以上です。
最後に北野たけし名言で締めたいと思います。
人生で楽しいことばかりじゃない。苦しいと思うことも生きている証だと思えば楽しめる。
必死にやってもうまくいくとは限らなくてどうにもならないこともある。それが普通で当たり前だってことの方を教えるのが教育だろう。
努力ってのは宝くじみたいなものだよ。買っても当たるかどうかはわからないけど、買わなきゃ当たらない。
少しでも参考になれば嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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